02
あの運命の出会いから新生した喫茶店の評判は近隣を超え、離れた町にすら口コミで広がり、引きも切らない客の訪れに、麗子は忙しい日々を送っていた。
すっかり軌道に乗った店は新しく人を雇う余裕も生まれ、祖父母も安心して任せられるほどに繁盛していた。
余りに多い客の入りに2号店を開くと、そちらも人気のある店となっているのだが、なぜか本店の方が圧倒的に客が訪れる。
その理由を尋ねたことがあったのだが、なんとあの占い師から渡された絵を見るために来ているのだそうだ。
特にいい絵だとは思わないのだが、なぜかあの絵を見ながら飲むコーヒーがうまいと、来る客皆口をそろえてそういうのだからおかしなものだ。
そんな絵を欲しがる人間はやはり多いもので、今までも何人かは高額での買い取りを申し出てくることがあったのだが、あくまでもあの絵は借りものであると言って断って来た。
断っても断っても何度も話を持ち掛けられるが、こればかりはと麗子も了承することは無かった。
絵を見たければコーヒーを飲みに来てほしい、そう語る麗子に大抵の人は引き下がるのだが、それでも尚食い下がる人間もいた。
そしてある日、事件は起きた。
いつものように麗子が店を開けようとした時、昨夜確かにかけたはずの鍵が開いており、店の中へ入ってみると特に荒らされた様子は無い。
ただ一点だけ、いつもの光景から消えている物があった。
「絵が…無くなってる…ど、どうしよう、占い師さんからの預かり物なのに、あ!そうだ、警察!」
すぐさま近くの交番に駆け込み、盗難に遭ったことを告げると、警察官が現場に到着し、実況見分を始めた。
その横で麗子は別の警察官から事情を聴かれている。
「昨夜11時から今朝の4時まではだれもいなかった、と。盗まれたのはその絵だけですか?」
「ええ、レジにお金は入ってませんし、食材とかも荒らされてません」
カウンターの中の保冷庫やコーヒー豆の入った袋には一切手を付けられておらず、絵だけを狙って盗み出したとしか思えない。
「そうですか…。では一度署の方にご足労頂いて、被害届を提出していただくことになりますが、よろしいですか?」
「わかりました…あの、盗まれた物ってちゃんと見つかりますよね?あの絵は大事な預かり物なんです」
「必ず見つけて見せますよ。それが私たちの仕事ですから」
力強く言い放つ警察官の言葉を頼もしく思い、麗子は被害届を出すためにこの日は店を臨時休業とした。
店を休みにした麗子はその後、あの占い師を探して町中を走り回っていた。
絵を盗まれたことを一刻も早く伝えたいという一心で探し回るが、どこにも姿が見当たらない。
以前であった場所に向かったのだが、細い路地を抜けた先にあったはずの広場は何故か存在せず、近くに住む人にそのことを尋ねてみるが、路地の奥にそんなスペースがあるはずがないと言われ、自分の記憶が違っていたのかと建物の間をくまなく探してみたがやはり見つからず、途方に暮れていた。
姿を見つけるだけでも奇跡というその占い師にもう一度会おうとするのはやはり難しいのだろうと思ったが、それでも何が何でも合わなければという、半ば使命感のような物に駆られ、再び町中を走り抜けていく。
どれくらい探し続けただろうか、すっかり夕暮れに染まった町並みを眺めながら、そう言えばあの時もこんな夕暮れだったなと思っていた時だった。
歩き疲れて街角にあるベンチに腰掛けて町行く人たちを見ていると、目の前をあの占い師が通りがかったのだ。
あまりにも呆気ない遭遇に驚きすぎて、一瞬金縛りにあったように動けなかったが、すぐに気を持ち直して歩き去っていく背中に声を掛ける。
「あ、あの!すいません!」
「はい?私ですか?おや、あなたは…」
呼び止められたと気付いて占い師が振り向くと、麗子の顔に見覚えがあったようで、口元に僅かに笑みが浮かんでいるのがわかる。
「少し前に相談に乗りましたね。あれから店の方はどうですか?」
「はい、あれからすっかり良くなって、店の経営は随分と―あぁそれどころじゃなくて!」
尋ねられたことに笑顔で応えていた麗子だったが、探していた用の方を思い出して、一転して慌てた様子になる。
「?なんだかよくわかりませんが、少し落ち着きませんか?…あそこの公園にでも入りましょうか」
そう言ってスタスタと公園の中へと向かう占い師に、麗子は制止の声を上げる暇も無くただ着いて行くしかできなかった。
公園のベンチに腰かけた占い師の横に一緒になって座る麗子は、ここで話をきりだすことにした。
アドバイスによって店が繁盛できたことに始まり、預かっていた絵を盗まれたことを話し終わることろには、あまりの申し訳なさに麗子は俯いてしまっていた。
「そうですか…困りましたねぇ」
「本当にすみません!絵は今警察の方が探してくれているんですけど、もし見つからなかった時には必ず賠償させていただきますので」
「あぁいやいや、困ったというのはそういう意味ではなくてですね。…絵は盗まれたんですよね?つまりあなたの同意の下ではなく、勝手に持ち出されたと」
「え?あ、はいそういうことになりますけど…」
てっきり紛失を責められるかと思っていた麗子だったが、占い師は無くなったこと自体はどうでもいいようで、無断で持ち出されたことを気にしているようだった。
「ふーむ…まあ絵の方はそんなに気にしないで下さい。多分、その内盗んだ人と一緒に見つかりますよ」
何故そんなことが言えるのか疑問に思ったが、本人がそういうのだから気にしないという言葉に甘えることにした。
それから麗子はあの後から自分の店がどれだけ良くなったかを熱のこもった弁で語り、それを相槌を打ちながら聞く占い師という光景が、日が沈むまで見受けられた。
「けど、絵が目当てでいらっしゃるお客様もいて、絵が無くなったって知ったらもう来てくれないんじゃないかって不安なんです」
一通り話し終えると、先ほどまでの笑顔が一転して曇った顔になり、俯いてしまった麗子に占い師が諭すような声色で話しかけた。
「確かにそういう人はいるでしょうね。それでも、あの店が気にいったという人は絵が無くても来るはずです。そういう手応えはありませんでしたか?」
「あ…」
言われて初めて最近増え始めた常連客達の顔が頭に浮かび、そのことが今の言葉に対する答えだった。
絵が盗まれてから1週間経った。
そのことを知った客の中には喫茶店に足を運ぶ回数が減った者もいたが、それでも店自体を気に入っている客がまだまだいて、経営が苦しかったあの頃と比べるとずっと順調だ。
ピークの頃とはかなり落ちるが、それでも十分に忙しい日々を送っていたある日、いつものようにランチタイムが過ぎたのを見計らって、最近雇ったアルバイトの美樹を休憩に入らせようかと思っていると、その美樹から声がかけられる。
「店長ー、店長に直接のお客さんです」
「私に?誰かしら…美樹ちゃん、ちょっとカウンターお願いね」
カウンターに入ってきた美樹にその場を任せ、入り口で待っている人影へと近付いて行く。
入り口にはスーツ姿の男性が2人おり、片方はまだ若いかっちりした服装だが、もう一人は中年を過ぎた見た目に沿うようにくたびれたスーツが聞慣れているといった様子だ。
「私に御用と聞きましたが」
麗子の到着を待って2人の内の年かさの男が話し出す。
「ええ、わざわざお呼び立てして申し訳ありませんねぇ。私達は警察のものです。私は斉藤、こっちの若いのは半田といいます。今日伺ったのは以前こちらで盗まれた絵のことで」
そう言って2人が揃って警察手帳を開いて麗子に身分を明かす。
「見つかりましたか!?絵はどこに!?」
「まあ落ち着いて。…絵は見つかったんですが、少々問題がありまして。どこか座って話せませんか?」
確かに入り口で立ちっぱなしだと客も入りにくいと思って、丁度客足も落ち着いた時間帯であったこともあって店内の対面式の席を一つ使い、そこで話を聞くことにした。
「今回絵が見つかったのは通常の捜査ではなく、とある組織と関わりのある企業の捜査によって偶然見つかったんです」
斉藤が言うには、暴力団と企業の癒着を追って警察が元々マークしていた人物がいたのだが、入念な証拠集めの最中にこの人物が突然、体調を崩して病院に担ぎ込まれるという事態が起こった。
積み重ねてきた捜査が消し飛びそうな事態に泡を食った捜査員が情報を集めた所、その人物は急性アルコール中毒で倒れたらしく、結局亡くなってしまったらしい。
「この人物の死亡で捜査は一旦打ち切りに。亡くなった現場保存の過程であなたの店の絵が件の人物のいた部屋から見つかりましてね。まあその絵のことは鑑識の一人がこの店のことを知っていたのですぐにわかったんですが」
絵が見つかると、盗んだ実行犯が誰なのかという話になり、調べていくとつながりのある暴力団の構成員が浮かび上がり、それを辿って組織ごと検挙する準備が始まっているのだそうだ。
「はあ、それで問題と言うのは?」
今のところは絵を盗んだ実行犯は暴力団員であると分かっているが、それならすぐに捕まるので麗子には関係のある話ではないはず。
「まあ問題と言うか、お願いと言うか…。例の絵なんですが、証拠品の一つとして暫くこちらに預けてもらえないかと」
そう言ってテーブルに額が着くくらいに頭を下げる斉藤に倣って半田も一緒に頭を下げ、麗子に絵の返却の延長を申し出てきた。
麗子としても持ち主の許しを得ているため、絶対にすぐ返却してほしいという状況ではなく、快諾とはいかないが了承することには抵抗は無かった。
更に日は経ち、夕日が差し込む店内に珍しい客が訪れた。
「いらっしゃいませ…あ!占い師さん!」
「どうもお久しぶりです」
入り口に立っていたのはあの占い師だった。
季節を無視したロングコートのようなローブにフードを目深にかぶった姿という一種異様さが目立つ姿なのだが、本人が堂々としているせいですぐに日常の光景に馴染んでしまうという不思議さがある。
「あぁそうだ、こちらの席へどうぞ。絵のことでお話がありますので」
カウンター席の中でも麗子の立っている目の前の席を勧め、そちらへと着席を促す。
「おや、そうですか。では失礼して」
そう言って背負っていた商売道具を椅子の横に下し、席に着くとおすすめを注文した。
注文の品を作りながら絵のことを占い師に報告する。
「そんなわけでまだ手元にはないんですが、その内返ってくるはずですので必ずお返しできますよ」
慣れた手つきでコーヒーを入れながら語る麗子に頷きを返してから占い師が口を開く。
「なるほど、そういうことでしたか。まあ絵のことは余り気にしていなかったのでいいのですが、どうです?絵が返ってきたらまた飾りませんか?」
占い師の言葉に一瞬だけ悩むような仕草をするが、すぐに頭を横に振って断って来た。
「いえ、やっぱり今回のことがあった以上は絵を持ち続けることは出来ません。また盗まれてしまったら合わせる顔がありませんよ」
元々は初めのアドバイスの時に占い師から持ち掛けられた絵を飾る話だったのだが、それが今回盗難に遭ってしまったとあっては、手元に置いておくことは出来ないと判断し、警察から返されたらすぐにでも返却しようと心に決めていたのだ。
そもそも絵を飾る条件も、売りも譲りもしないというものだったため、麗子の店に何故置くのかも理由は分からず、聞いたとしても教えてくれないような気がしているため聞かないでいた。
「私は気にしないんですがねぇ。…まあそちらがそういうのならそれがいいでしょう。では、絵が返却されたらこちらに連絡をお願いします」
そう言って小さなメモ用紙を折り畳んだものを麗子に手渡してきた。
開いてみると中には電話番号が書かれており、そこに電話をしろという風に捉えて了承の頷きを返した。
「わかりました、必ず連絡をさせていただきます。さあ、お待たせしました。本日のおすすめセット、『順風満帆』でございます」
メモと入れ替わる様に占い師の前に置かれたお盆にはコーヒーとサンドイッチのセットが載せられている。
「おや、私が頼んだのはおすすめコーヒー単品だったはずでは?」
「これぐらいはサービスさせて下さい。占い師さんは当店の救世主なんですから」
麗子の気づかいに笑みを漏らして礼を言い、静かに食事を始めた。
「…うん、マイルドな酸味にコクと苦みが丁度いいバランスですね。ハワイコナに…ほう、この微かな風味は大麦ですか。面白い組み合わせだと思いますよ」
コーヒーを一口飲むだけでそこに含まれる情報を麗子に話すと、驚いた表情で見てきた。
「すごい…よくわかりますね。このブレンドは私の祖母が昔考えた物なんですよ。まだ誰も気づいていないのに、本当にすごいです」
「ははは、こういう仕事をしていると感覚が鋭くなるものですよ」
再びコーヒーを口に含んで笑顔を浮かべていることから気に入ってもらえたと麗子も笑顔になる。
自分の店を助けてくれた恩人に、その店の品でもてなす。
この時になって初めて自分は恩返しが出来たのだと、麗子の心は満足感で溢れていた。