010 甘えたい
見慣れた家が見える。長年住んで見慣れた家。そう、日陰の家だ。
日陰は見慣れた家の見慣れた庭に佇んでいる。
まだ真新しい家と庭。建ててすぐなのだろう。今の日陰の家はこれほど綺麗ではない。
(と言うことは…夢ですか…)
家の外観だけで夢と判断するのも不確かな感じはするが、これを夢だと分かった理由は家の外観だけでは無かった。
『うわああああぁぁぁぁんっ』
庭で泣いている子供。写真の中でだがとても見たことがあった。
そう、幼い頃の日陰だ。年の頃は五、六歳だ。何故泣いているかは分からないがわんわん泣いていた。
(僕は何をこんなに泣いているのだろう?)
自分の事なのに覚えていない日陰。まあ、幼い頃の記憶なんてそんなものであろう。
『あらあら~どうしたんです日陰?』
不意に家の窓が空き誰かが出てくる。
その声にはうっすらと聞き覚えがあった。懐かしく温かみのある声。日陰の大好きだったあの声。
声の方を見ると日陰は思わず固まってしまう。
(おかあ…さん…?)
そう、その人物は思い出と写真のみに見覚えのある日陰の母親の陽向空だ。
彼女は心配そうな顔をしながら幼い日陰に近付く。
『うわああああぁぁぁぁんっ。かあさああぁぁんっ』
幼い日陰も母の姿を見ると走って駆け寄る。
ボフンと母に勢い良く抱き付く。
『どうしたんです日陰?』
『う、うううっ…ひっく…』
母に抱きついたことで若干涙は引っ込んではいるがそれでも泣いている幼い日陰。
『日陰、泣いていたら分からないですよ?お母さんに言ってみてください?』
母はちょっと日陰を離すとしゃがみこみ視線を合わせ、安心させるためか笑顔で幼い日陰にそう言う。
幼い日陰は母の言葉に頑張って涙を堪えて話しだした。
『み、みよちゃんが、お、オレ(・・)のことおねえちゃんばなれできない、はずかしい子だって…』
(俺?…僕、昔は俺なんて言ってたんですね…口調も全然違いますし…何ででしょうか?)
そんな日陰の疑問を無視して、そんなこと無いよね?と潤んだ目で訴える幼い日陰に母が答える。
『あらあら~、確かに日陰はお姉ちゃん離れできてないですね~どうしましょう?』
だが、母親はそれを肯定した。途端に幼い日陰はまた泣き出してしまう。
(おかあさん…そこは否定して上げましょうよ…)
母の言葉に思わず呆れてしまう日陰。
だが、母は微笑みながら幼い日陰を抱き上げると背中をポンポンと叩きながら言った。
『でもね日陰。それは別に恥ずかしいことじゃないのですよ?』
『え?』
『離れられないってことは、日陰はお姉ちゃん達のことが好きなのですよね?』
『うん…大好きだよ?』
『それってとっても素敵な事なのですよ?大好きだから離れたくない。自分の感情に素直で良いじゃないですか』
母の言葉に今の日陰は心にくる物があった。好きだけど家族と近づきすぎてはいけない。が、離れてもいけない。着かず離れづをしなくてはいけない日陰はその言葉を受け止めると、胸が苦しくなった。
『胸を張って良いですよ。好きなんですもの、しょうがないです』
温かみのある言葉でそういわれた幼い日陰はにぱあっと笑顔になった。
母はそれを見ると立ち上がり日陰の手を取った。
『さあ、そろそろおやつの時間になりますよ。お姉ちゃん達を迎えに行きましょう』
『うん!』
日陰は元気よく答えると笑顔で繋いだ母の手を振りながら庭から出て行った。恐らくは近所の公園にでも行って満月と真月を迎えに行ったのだろう。
そんなどうでも良いことを考えながらも、日陰は不安げな顔で遠くなる母の背中を見つめて言った。
(お母さん…僕は好きなのに近くにはいけません……どうしたら良いのでしょうか?)
そう言っても夢の中の母は答えてくれない。幼い日陰と手を繋ぎ、時折嬉しそうな顔をして言葉を紡いでいる。
楽しそうに歩く二人は姿が見えなくなる最後まで後ろを振り向くことはなかった。
○ ○ ○
目を開けると日陰の目には見たことのない真っ白な天井が目に映った。微かに香る薬品の匂いがここを医療関係の場所であることを教えてくれる。
起き上がろうと身じろぎすると頭が微かに痛んだ。それでも我慢できないほど痛いわけではないので気にせず起きあがる。
「おお、気がついたかね?」
「ええ…おはようございます」
横から聞こえる瑞穂の声に特に驚くでもなく答える。
「驚かないのだな」
「目が覚めたときにチラリと見えてましたので」
「ほほう。それならば生まれたての雛鳥のように目を開けてから始めてみた私を母親だと思って甘えてもいいんだぞ?」
ほれほれ、と手を広げてハグの体制をとる瑞穂に若干呆れた眼差しを向ける日陰。
視線を向けられた瑞穂は若干ムスッとした顔をした。
「連れないな君は」
「よく言われます」
今日は特に。しかも瑞穂に。
「ふん、私がせっかく甘えて良いと許可を出したのに」
「何の脈絡もなくそう言われても甘えるに甘えられません」
「…脈絡ならあるさ」
さっきまで少しだけふざけた様子だった瑞穂が急に真面目な顔をし始める。
瑞穂の急な変化に戸惑う日陰。そんな日陰に瑞穂は静かな声で言った。
「君が寝言で『お母さん』と言っていたのを聞いてな……君の家庭環境はよく知っているよ……」
「ーーーっ!?……そう……ですか…」
知られていたことに驚くも謎と人脈の多き瑞穂であればそれぐらい容易いことだろうと思い、おざなりながらも返事を返した。
別に瑞穂に知られていたって構いはしない。それに隠すような事でも無いのだ。
「…だから、私に甘えても構わん。今日は特別に許可しよう」
そう言ってまた腕を広げる瑞穂。
日陰は飛び込んでしまいたい衝動に駆られる。今は誰かに甘えたかった。救いの見えないレベルゼロという呪いの雁字搦めの中で家族との距離を悩み、他人との関係に悩み。日陰はもう一杯一杯だった。
そうして答えのでない中で本当は縋りたくてしょうがない母を見てしまった。その母すらいない事実を再確認して、日陰はの心はもう耐えられそうになかった。
だが、それでも日陰は瑞穂の胸に飛び込みはしない。瑞穂の胸に飛び込んだところで何も解決はしないのだから。
「お気持ちは大変嬉しいですけど遠慮しておきます」
「ふむ、やはり連れないな」
つまらなそうな顔をする瑞穂に日陰は今までに他人に見せたことのない少し甘えたような顔で言った。
「でも、もし、僕が耐えきれいってなってしまったら…お願いしても良いですか?」
日陰の言葉に驚いたように目を見開く瑞穂。次の瞬間、喜色満面の笑みを浮かべた。
「ああ、良いともっ。存分に私の胸で甘えると良いっ」
「ありがとうございます」
「ちなみに私のバストはDだ。程よい大きさだぞ?」
「……」
最後の一言で一気に甘えにくくなってしまった。言われ瑞穂の胸に目がいってしまうのは仕方のないことだろう。
別にスケベな心があって甘えても良いですかと聞いたわけではないのだが、そう言われると意識してしまう。
が、いかんいかんと首を振り意識を別の方向に向ける。
「そ、それで…何で僕はここに?」
「覚えてないのかね?君は金本くん達のパーティーと小競り合いになり、途中で頭を押さえながら気を失ったのだよ」
瑞穂に説明され徐々に思い出していく日陰。その顔にはありありと後悔の色が見て取れた。
日陰としては何故あんなことを言ったのか分からない。それに言葉遣いもなんだか違った。
イライラしていたのは確かだがあんなに言うつもりではなかった。嫌みの一つや二つ言ってミリーと離脱でもしようと思っていたのだが、気づいたらああいう風に口走っていたのだ。
日陰の思案と後悔の顔を見た瑞穂は日陰が思い出したのだとわかり口を開く。
「その顔を見るに思い出したようだね。全く気をつけてくれたまえよ?」
「はい…今回は僕も言い過ぎたと思います」
「いやいや、小競り合いの事ではないよ。君の背中の傷のことだ」
「は?背中の傷?」
訳が分からないと言った顔をする日陰に、瑞穂は呆れたような顔をした。
「気づいていなかったのか?ざっくり斬られていたぞ?」
「え?本当ですか?」
「嘘を言ってどうするのだ。刀で斬られたような傷があったぞ。まあ、保険医に治療させておいたがな。服は私が直しておいた」
そう言われ手で背中をまさぐるが、特に異常は見られない。
「大丈夫だ、完璧に直してある」
「そうですか。すみません、お手数かけたみたいで」
「なに、気にすることはないさ。それも私の仕事だ」
「ありがとうございます…」
背中に傷があったという事はオークの最初の一撃を完全にはかわすことが出来なかったという事だろう。倒れた後に傷が付いたとは思わない。
自分の未熟さに嫌気がさしてくる。これで一人で大丈夫だなんてのたまっていたと思うと恥ずかしくなる。
それに、傷の経緯を瑞穂には知られてしまっただろう。これでは彼女もソロプレイの許可を撤廃するほか無いだろう。
「校長先生…僕はソロプレイもう出来ませんよね……」
そうなれば日陰は確実にあのパーティーに入ることになるだろう。あそこまでやってしまったのだいづらいことこの上ない。
日陰の問いに瑞穂は思案顔になる。
「……そうだな。君がソロを望むのなら私としてはこのままで構わないと思っている」
「ほ、本当ですか?」
「ああ、君もあのパーティーにはいづらいだろう?」
「ええ、まあ…」
「ならばソロプレイを続行すると良い。君も彼女達にとってもその方が良いだろう」
「ありがとうございます」
瑞穂の言葉に安堵する日陰。だが、その安堵も束の間であった。
「だが条件がある」
「条件…ですか…?」
「ああ、条件…と言うよりは私との約束だ」
いつもより真剣な表情でそう言う瑞穂。その表情に思わず息をのむ。
「君はこれからダメージを受けてはいけない」
「……え…?」
「ノーダメージで毎回帰還するんだ。それが私と君との約束だ」
それは、とても難しい約束だ。日陰はそんなに強くない。レベル的な意味でも、実力的な意味でも。そこらへんの中学生にすら負ける自信がある。
そんな日陰が毎回ノーダメージでの帰還を果たさなければならない。
無理だ。今回ですら不意打ちとは言え一撃貰っているのだ。もう一度言おう、無理だ。
だが、その条件を飲まなければ日陰はソロプレイが出来ない。難しい条件ではあるがのむしかないのだ。それ以外の道は日陰には提示されていないのだから。
「分かりました。ノーダメージで帰ります」
「うむ。では、引き続き君のソロプレイを了承しよう……さて、私は校長室に戻るとしようかな」
これでも仕事が沢山あってね。と言いながら彼女は立ち上がり扉の方へと足を向けた。
去っていく瑞穂の背中を見つめて言いようのない不安が胸に広がる。その不安に押されるように日陰はとっさに手を伸ばし瑞穂の腕をとってしまう。
「……どうしたのかね?」
驚きながらも優しい声音でそう聞いてくる瑞穂。
「…いえ…すみません…何でもないです」
「何でもないと言うことはないだろう?」
瑞穂はそう言うと繋がれた手を軽く上に持ち上げる。それを見て日陰は慌てて手を離す。
少し名残惜しそうに繋がれていた手を見る瑞穂に日陰は謝る。
「すみません……」
「ふふっ、良いさ。甘え下手な君が少しでも甘えてくれたと言うことなのだからね」
そう言う瑞穂の顔はとても優しげなものであった。その優しげな表情は日陰の胡散臭いという評価を撤廃しなくてはならないほど慈しみをたたえたものであった。
「さて、今度こそ私は行こうかな。また何かあったらいつでも校長室に来ると良い」
瑞穂はそう言い残すと今度こそ保健室を後にした。
日陰も今度は手を取るようなことはしなかった。
窓の外を見ると、外はもうすでに夕暮れ時だ。帰ってお夕飯を作らなくてはいけないだろう。それに、今は家族が恋しかった。
日陰はベッドから降りると教室にあるリュックを取りに向かった。急にいなくなったら保険医が慌てると思い書き置きを残していった。
早く家族に会いたいと思い少しだけ早足になる日陰。放課後の廊下には日陰の少し急ぐ足音だけが響いた。
日陰のいなくなった保健室に人が一人やってくる。
コツコツと靴音を鳴らしながら彼女はさっきまで日陰がいたベッドまで行きベッドに腰をかける。
足を組み組んだ足に肘を起き頬杖をつきながら窓の外を見る。
「これで満足だろう?」
一人話し出す彼女。だが、これは独り言というわけではない。ちゃんと話す相手がいるのだ。その話す相手が黙りこくっているので独り言のようになってしまっているだけだ。
ベッドに座る彼女、藤堂瑞穂は視線をカーテンの引かれた隣のベッドに向ける。
「…ふう…そろそろ出てきても構わんのでは?彼はもう行ったのだから」
瑞穂がそう言うこと少し遅れてカーテンが開かれた。そこにいたのは金本恭子であった。
彼女は日陰と瑞穂の会話をずっと聞いていたのだ。
二人のすべての話を聞いていた彼女は沈痛な面もちで立っていた。
「アタシは、陽向をアタシ達のパーティー入れるように頼んだんですが?」
睨むようにして瑞穂を見つめる恭子。その眼光はもともとの目つきの悪さもあいまってかなり威圧感を放っていた。
だが瑞穂はそんな視線を何でもないかのように見つめ返す。
「いきなりは無理だよ。私はあまり人に物事を強要はしたくないのでね」
「それでも、安全面を考えればアタシ達とパーティーを組むのがベストな筈です!このままでは陽向がいつ大怪我を負うか分からない!」
「その意見には一理ある。…が、それは難しいね」
「何故です!?」
「彼が君達に心を開いていないからだよ」
「ーーーっ!?…そ、それが、パーティーを組ませない理由と何の関係が…」
理由の分かっていない恭子に瑞穂は呆れとも侮蔑とも取れる視線を向けた。その視線に恭子はたじろぐ。
「心を開いていない相手と連携なんて取れるわけがないだろう?入っても足を引っ張るだけだよ。今よりよっぽど危険だ」
「ひ、陽向が戦う必要なんて無い!アタシ達が守ればーーー」
「その言葉が」
恭子の言葉を遮った瑞穂の目は冷たく、まるで路傍の石を見るかのようなものだった。
その冷たい視線に思わず後ずさりをする恭子。
そんな恭子に構いもせず瑞穂は言葉を紡いだ。
「その言葉が彼をどれだけ傷つけたでしょうね。戦わなくて良い。陽向君は自分たちが守る。それはつまりは足手纏いと言われているのと同義よ」
「アタシは、そんなつもりで言ったんじゃ……」
「貴女にその気はなくても彼は自分のことを足手纏いだと言われたと思ったに違いないわ」
そう、これは自分がどういう気持ちで言ったかじゃない。彼がどう受け取ってしまったかだ。どう受け取らざるを得なかったか。その事を恭子は考えもしなかった。
「彼は守って欲しかった訳じゃない。仲間に入れて欲しかったのよ」
瑞穂は最後にそう言うと保健室を後にした。
一人残された恭子はただ立ちすくむほか無かった。




