人の心は五里霧中、表と裏と奥の奥
「なかなか興味深いよね? これ」
笑いを含んだ声で、男は相変わらず私の耳元で囁く。
半ば呆然としていた私は、その声で我に返る。
「おっと……」
「………………」
私が手帳を掴もうと手を伸ばすと、男はリーチの長さを活かして真上に持ち上げた。
「……なぜ返さない?」
「今日はこれしか持って来て無いから、次に会ったら家に招待して他のと一緒に返すよ」
くつくつと笑う振動が、私の身体も揺らす。
「全力で辞退するっ」
「まぁそう言わずに、書かれてること気になるんだよね。
ぜひゆっくり聞かせてよ、生年月日の事とか……」
私の肩がギクリと動いた。
この時代の日本で、西暦って知られてたっけ?
そんな私の反応に、後ろの男はニヤリと笑った気配。
「今から招待したいところだけど、そうも行かなそうだね」
「へ?」
反射的に私は首を巡らし、後ろを見ようとしたが。
お腹に回された腕に力が入り、密着度が増したせいで失敗。
「本当に面白い子だね君は…… ねえ、何で逃げたの?」
さすがに腹の圧迫が苦しくて、外そうとじたばたする私。
おのれっ、びくともしないっ!
「追われたら逃げるでしょうが!」
何を言ってるんだこの男はっ
私のイライラには一切頓着せず、どこまでも楽しげな男。
「へぇそう? まあおかげで君に接触できたから良かったけど」
訳の分からない事を言ってまた笑う。
てか、腹が苦し過ぎて何か出そうなんですけど!
往生際悪く私がじたばたしていると、不意に回された腕の力が緩んだ。
「暫く会えないのが残念だなぁ」
「はぁあ?」
二度と会いたくないし!
と、続けて叫ぶ前に男が私の背中を軽く押した。
意表を突かれて私は思いのほか前方に踏み出し、狭い横道から大通に飛び出す。
慌てて振り返る私。
「またね」
声の主は、無闇やたらと整った顔に満面の笑みを張り付かせていた。
不覚にも見とれていたら、私を呼ぶ大声が耳に届く。
「セイ!! ここに居たのか」
驚いて声のした方を見ると、目に飛び込んで来たのは鮮やかな浅葱色。
「原田さん!」
意外な人物に、一瞬私の思考が停止する。
一拍おいて、再び横道に視線を向けると男は既に消えていました。
……………。
私の生徒手帳……
「無事だったか、探したぜぇ?」
私の元に辿り着いた原田さんのお言葉。
「え? あれ? なぜに原田さんが?」
事態が飲み込めず、私の頭は混乱中。
「巡回中に、お前を探してる総司と会ったんだよ」
………………。
………………。
………………。
あぁぁああぁぁぁ!?
「そうでした!! 沖田さん!! ぶっ!?」
思わず叫んだ私の頭上に、正体不明の物体が降って来ました。
割と重く、地味に首に打撃を被ったその物体は風呂敷包み。
「君は馬鹿ですか」
落とした主は、困ったような笑みを浮かべた沖田さん。
内容はともかく声音は穏やかなのに、なぜか背筋が寒くなり凍りつく私。
その間にも沖田さんと原田さんが何やら話し、他の隊士さん達に指示を出す。
どうやら男性A・Bは、原田さん達が捕まえた模様。
お仕事中の彼等が、奉行所に連れて行くと言う事でその場で別れる事に。
私が慌ててお礼を言うと、原田さんはニカッと笑って去って行きました。
それを見送った後、私は沖田さんと帰路につく。
歩きながら、買ったばかりの着物を包んだ風呂敷を抱え。
私は沖田さんの横顔を窺う。
穏やかな表情、でも何かが違う……
私の勘が、煩いくらいに警鐘を鳴らす。
なぜそんな勘が働くかって? それは私と似た匂いがするから。
この人は、相当怒ってる。
沖田総司という人物。
ドラマなどでは、明るく聡明な好青年。
最後まで芹沢達を仲間と信じていた為に、凄腕の剣士でありながら暗殺されてしまった悲劇の人。
しかし今、目の前にいる彼は、ドラマ通りの好青年に見えるがそんな筈はない。
人間はそんな通り一遍の、分かりやすい一面しか持って無いなどあり得ない。
時折、爽やかな彼の笑顔にどす黒さを感じるのは、きっと気のせいじゃない。
何となく、私と似てると思う。
私の運の悪さは、よく周りを巻き込む。
私自身や友人は無傷でも、その他はそうはいかない。
大怪我や命を落とした人も……
無傷の友人達だって、巻き込まれたショックは大きい。
更に警察、七割方の事故現場の中心に私が居て、ぴんぴんしてたら疑うなと言っても無理な話。
疑問、疑惑、畏怖……
私は常に、そんな視線に晒されて来た訳で。
割と短気だと、自覚のある私。
別に好き好んで不運を呼び込んでる訳でも無いのに、そんな目で見られるのは腹が立つ。
しかし怒りに任せて怒鳴ったところで、不信感を煽り疲れるだけ。
それよりも、謙虚に礼儀正しく控え目に。
そんな態度を見せるだけで、周りの視線は同情や憐れみに変わる。
不満は残るが、その方が生きるのにはずっと楽。
それがじじいさま曰く、二重人格と言わしめた私の処世術。
しかし不満や怒りを、ずっと閉じ込めておくなど不可能。
必ずどこかで吐き出さなければ、自分がもたない。
私のぶつけどころはじじいさま。
それを踏まえて、沖田さんを見上げる。
彼の穏やかさが処世術ならば、それを身につけ必要のある生い立ちってどんなだろう?
溜まる不満や怒りを、さらけ出す事の出来る相手は居るんだろうか?
私が知る限り、誰に対しても態度が変わる様子が無い。
どうやら、小出しに鬱憤ばらしをしていると思われる。
本人に自覚があるやら無いやら、思い当たる節がある。
それは、沖田さんの言葉。
私に対して沖田さんは平素、名前を呼ぶか“貴女”を使う。
しかしたまに“君”と呼ぶ時がある。
不思議に思っていたこの違い、意味がある事に気づいたのはつい先程。
今までに“君”と呼ばれたのは、土方さんが沖田さんに私の身柄を任せた時。
甘味屋を出た後。
そしてついさっき。
どれも不機嫌そうだなと、感じた時と一致する。
おそらく無意識と思われるこの違い、危険度を見極めるには良いかも知れない。
何しろそういう時は決まって、爽やかにさり気なく嫌がらせが繰り出されるから……
そう、あの呉服屋の様に。
何てぼんやりと、沖田さんを見上げたまま考えていたもので。
視線が煩わしかったのか、苦笑して見下ろして来た彼の目とぱちっとかち合ってしまいました。
「何ですか?」
柔らかく告げられたにも関わらず、顔が引きつる私。
「申し訳ありませんでした、騒ぎになって……」
私を見つけて頭の天辺に、風呂敷包みを落とした沖田さんは息が上がってました。
かなり探してくれたのだと、申し訳なく思いつつ。
彼の醸し出すどす黒さに委縮して、なかなか言い出せず。
今頃の謝罪となったのですが……
なぜか更にどす黒さが、アップした気がしますっ
反射的に一歩、距離をおく私。
沖田さんは目を細めて一瞥すると、ピタリと立ち止まりました。
「君は、なぜ逃げたんですか?」
………………はい?
穏やかに聞かれたのは、さっきの変人…… じゃなく男性と同じ事。
私は目を丸くしながらも、何とか答えを捻り出す。
「前に追いかけられた二人に見つかったもで、逃げたのですが……」
だんだん小さくなる私の声を聞きながら、盛大な溜め息を吐き出す沖田さん。
「だから、それでなぜ逃げるんですか?」
え? 逃げずに捕まれと?
「呉服屋の店内に戻れば、僕が居たのに」
………………。
あぁぁあああぁぁ!!
「とろくさい君が闇雲に逃げるより、僕を呼ぶ方が話しは早いでしょう?」
正しく仰る通り。
目を見開き、口をパクパクしている私。
「何のために、二人で外出してると思っているんですか」
沖田さんの、止めの一言が突き刺さる。
返す言葉がございません。
がっくりと項垂れる私の上から、また溜め息が降って来る。
しかし、あえて言い訳をするならば。
「今までも絡まれたりはよくあって、逃げるのがいつもの事だったのでつい……」
常に一人で行動が基本の私、問答無用で降りかかる不運に。
出来る事なら、誰も巻き込みたくないから。
したがって、助けてくれる誰かが一緒だった事など無く。
すぽんと沖田さんの存在を、失念しておりました。
項垂れる私、おそらく見下ろしている沖田さん。
そんな状態で暫しの沈黙が続いた後、何度目かの溜め息と共に質問が投げ掛けられました。
「で? 歩くだけで息切れする貴女が、一人で逃げ切れるとは思えません。
誰に助けられたんです?」
本当に、よく分かっていらっしゃる。
「非常識にまた何かが降って来て、逃げられた可能性もありますが。
それらしい騒ぎはありませんでしたし……」
と、続く台詞は聞き流す方向でっ
さて、何と答えましょうか……
………………。
「私の落し物を拾った、変人の名無しの権兵衛さん……?」
「………………」
チラリと見上げた沖田さんの顔は、目を丸くしておりまして。
何とコメントするべきか、迷ってるご様子。
まぁ…… そうですよね。
「とりあえず帰りましょう、話しは歩きながらで」
一つ頭を振ると、そう言って沖田さんは歩き出し。
私は慌てて後に続きながら、あの変人と会った時の事をかいつまんで話しました。
粗方聞き終わると沖田さんはまた立ち止まり、私を真っ直ぐ見下ろし一言。
「それは、助けたと言うより誘拐未遂では?」
……かも知れません。
「落し物って、前に手ぶらだったかと聞いたやつですか?」
「そうです、ここに来る直前までカバン…… 巾着みたいな物を持ってたんです。
どこで落としたか、分からなかったんですが……」
あの変人が拾ってたという事は、ここに来た直後に落としたらしい。
沖田さんはなるほどと呟くと、またゆっくりと歩き出す。
「逃げたから接触できた…… そう言ったんですね?」
「……はい」
前を見たまま質問を寄越し、そのまま沖田さんは考え込んでしまいました。
無言になったところで、私も考えてみる。
逃げたから、という事は私が一人になったから?
だから声をかけたって事は……
1・二人連れだと恥ずかしくて声がかけれなかった。
………………。
あり得ん、何しろ変人だしっ
2・生徒手帳がらみの話しを他に聞かれたく無かった。
あり得る…… かな?
でも、手帳の文字を読めたんだろうか?
3・沖田さんに会いたく無かった。
………………。
この場合、ちょっと不味い気がします。
新選組の沖田総司と知っていて、会いたく無かったとしたらそれは敵という事に?
もしくは、個人的に嫌ってるとか。
どちらにしろ、私は思った以上に不味い変人と接触したんじゃ……
そこまで考えが及んだ辺りで、屯所が見えて来まして。
「どうやら、直接土方さんに報告する必要がありそうですね」
そろそろ夕焼けが見え始めた、綺麗なグラデーションの空をバックに。
それに負けない綺麗な笑顔を浮かべ、沖田さんが仰いました。
「……ですよね」
ガチガチに強張った笑顔で返し、私は大きな溜め息をつく。
これも不運のせいなのか……
不機嫌全開になりそうな、土方さんの顔が思い浮かび。
気持ちと同じ重い足取りで、私は屯所の門をくぐったのでした。
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