2.クレア少尉
「気圧を調べよ!」
形の良い眉をつり上げ、クレア・コウジュ少尉が命令を下した。嫌な予感に首筋の産毛が逆立つ。
クールビューティとして部下から頼られているクレア。見た目二十歳そこそこの女性士官である。詰め襟の白い軍服。タイトミニに、サバイバルブーツといった出で立ち。
山の天気は崩れやすい。とはいうものの、この気象は異常だ。いま見上げていた雲一つ無い青空が、二つ三つ呼吸する間に炭色の雲におおわれたのだ。あまりにも異常。
「報告します少尉っ! 気圧に変化はありませんっ!」
若い女性兵士の報告がうわずっていた。しかたあるまい。一ヶ月前に入隊したばかりの新米三等兵だ。
「変化無し。了解」
部下の報告に頷くクレア少尉。声と態度はのんびりしたもの。
これはわざと。クレアの心臓は危機に備え、自動的に活動モードに入っていた。
それが証拠に、額のクリスタルを指でトントンと叩いている。これはクレアの癖。
今はまずい。ここにいるのは、副官のシェリルを除いて新兵ばかり。三日前から、新兵達を集めた山岳訓練の最中。教育監督係のクレアに言わせれば、体のいいオリエンテーリング。
ここは、とある山脈の中腹。小さいながら、軍の施設。サバイバルに必要な一応の物はそろったシェルターにもなっている。
風が出てきた。気温も下がっている。心配なのは……。
クレア少尉はシェリル軍曹に尋ねた。解っていることなのに。
「五班、まだか?」
「最後尾の五班。まだ見えません」
見れば解る。律儀な副官の報告を聞きたかったわけではない。自分の心の乱れが言葉となって出たまで。
一班から五班まで、おのおの九人の中隊一個編成。一定の間隔を開けて、山道の踏破カリキュラム全行程四日の予定。今日の訓練が終われば後は山を下るだけとなった事実上の最終日。
等間隔で出発したはずなのだが、五班の到着だけが、予定より三十分ずれ込んでいる。
もう一人の副官が殿を受け持っているから大丈夫だと思うのだが……。
「シェリル軍曹! 命令、無線封鎖解除。五班に通信!」
クレアが命じる。クレア子飼いの部下、シェリル軍曹が敬礼。所定の者達に次々と命令を下していく。
主命を帯びた戦闘以外で、無駄に兵の命を失うことは、クレアの矜恃が許さなかった。
気圧に変化がないのにこの荒れ模様は?
異様な体の高ぶりを認識するクレア少尉。
ふと、新兵達を眺める。
三六人七二個の目がクレアに集まっていた。どの目も不安と、生まれもって身につけさせられている何かの予感による熱っぽい光を湛えていた。
みんな女性兵士。
熱を感じたクレアは、軍帽を脱いだ。銀のショートカットを後ろに撫で付けてからかぶり直す。先ほどから耳鳴りが続いてしかたない。
「電波状態不良です。五班、応答ありません!」
「了解!」
ますます怪しい。気圧の下がる気配がない。なぜ電離層が乱れているのか?
異常な天候によるもの。クレアはそう判断した。
「グランツァで出る。救命パック用意!」
グランツァとは、五年前に軍へ配備された正式車両。踏破性に優れた二輪オフロード。
カーキーを主体とした迷彩に塗装されたグランツァが、引き出された。
顎ひもで軍帽を固定し、小ぶりのバックパックを背負い、スカートのまま跨る。クレアのカンが、パンツに着替えている時間は無いと告げていた。
「シェリル軍曹、後は任せる。兵達の安全を第一に考えて行動せよ。異常事態である。軍規など無視しろ。責任は全て私が持つ!」
敬礼するシェリル軍曹を尻目に、メインスイッチに指をかけ一息つく。これは厳罰モノだなと、頭の中で覚悟を決める。
メインスイッチを押し込む。小さく唸る発動機関。マニュアル通り、照明類の動作を確認。スタンドを跳ね上げ、アクセルを回す。
後ろのブロックタイヤが土を噛む。軽くフロントを持ち上げ、勢いよく飛び出した。
スタンディングのまま、速度を上げる。岩がむき出すラフな路面。サスペションと膝と腰でショックを吸収する。なかなかの腕前。
岩場を駆け上がり、獣道をかき分け、訓練コースを逆走する。五班と出会ってもいい頃合はとっくに過ぎた。時間ばかりが過ぎていく。
本来なら、そして、普段のクレアなら、二次遭難を避けるためもっと早くに引き返していただろう。
過ぎていくだけの時間。
そのワードが、必要以上にクレアを焦らせた。嫌な汗が噴き出し、体を流れる落ちる。
風が強くなってきた。
山腹に作られたつづら折りの山道をグランツァのパワーにものを言わせ、素早く駆け上がっていく。右は山肌、左は崖。
こんなところで落ちようものなら命はない。例え命があったとしても、四方を山に囲まれた窪地に落ちることになる。生還は難しい。
嫌な予感と、広義の意味での希望に顔を上げ、テーブル状の山を見上げる。元は優雅なラインを描く成層火山だったのだ。だが今は、中腹あたりからスパリと切り取られた台形の山となり、最高峰の地位も、こちら側の双子山、ハティ山に譲り渡していた。
そのハティ山上空を中心として広範囲に黒い雲が、重厚な渦を巻いている。目で動きが追える。明らかに異常気象。
――この気象状態は!
クレアの記憶層から忌まわしくも正確な情報が引きずり出されようとしたその時。一本の太い光の柱が、ハティ山頂と渦を巻く黒雲の中央を繋いだ。
「ビフレストの橋がっ!」
叫ぶクレア。彼女が意識を保っていたのはそこまでだった。
二つの山を含む辺り一帯は、白一色で塗りつぶされたのだった。
第二の主人公? 登場。