10.お姉さんとダイブ。
仁が叫んだ・その時!
自然界ではけっして聞くことのできない音が、広場に響き渡る。
それは、銃声!
音がした方角を向く仁。右側だ。金獣たちも同じ方向を見ている。
今度は轟音がした。より重い音だ。反対の左側で。
右がフェイクで左が本命か!
左の森の一角が崩れ、土煙が立った。爆発的に紅い炎が踊る!
「ミヒ! シエルフィ・ル!」
その場にいる金獣達が血にはやっている。ほとんどの金獣が、火を出した森に向かって走り出した。
これだけの数の金獣相手に、どうやってクレアさんは戦おうというのか?
トラップの教官と言っていた。サバイバルの教官だとも言っていた。今までこっそり準備をしていたのだろう。だけど……。
だけど、ニケはこの場を動いていない。火の出た森を睨み付けている。親衛隊の方々も森の方に向け、手にした武器を構えていた。
クレアさん一人でどうやってこの窮地を切り抜けようというのか?
金獣の大群を向こうに回し――。
変化がおきた。
大釜二つがひっくり返った。
もうもうと上がる湯気。水煙と言っていいかもしれない。野菜と肉を煮込んだスープの美味しそうな香りが漂う。
「走れ! 九時の方向!」
煙の中からクレアさんが飛び出し、仁の体を背で押した。何のことか一瞬理解できないでいる仁。
ニケも親衛隊の金獣も呆然としている。今の今まで気づかなかった。反対の森ばかり見ていたからだ。
「シチ!」
いち早く我に返ったのはニケだった。猛然とクレアに襲いかかる。
クレアは両手で拳銃をホールドしている。
ニケの残った目を見たまま、右太ももに銃弾を撃ち込んだ。
もんどり打って転がるニケ。
「走れ! 馬鹿者がっ!」
背後から、クレアさんの声が飛んだ。
脊髄反射で走り出す仁。
「あの大きな木の右から、森に入れ!」
「え? 右? 右?」
急に言われて、左右の区別ができる人の方が少ない。仁も大多数の方だった。
「お箸を持つ方、だ・ろ・う・がっ!」
そう言われた方が早い。
クレアさんが生きていた。助けに来てくれた。窮地を脱した。
いや、まだだ。でもクレアさんと一緒なら、きっと助かる。そんな感情を混ぜこぜにして、大木の右手に突っ込んだ。
クレアは森に入る直前で振り返り、もう一発撃った。金獣たちは、すぐ後ろまで迫っていたのだった。
発砲ののち、大木の左側から森の中へとジャンプしたクレア。
クレア憎しとばかりに続いて、左から森に入る金獣たち。その足下がすくわれた。
親衛隊の金獣三体が逆さ宙吊りになる!
「そこの小道の左、……お茶碗を持つ側に沿って走れ!」
左急速走行。
また背後から悲鳴が聞こえる。さっきより悲痛な悲鳴だった。どんなトラップが仕掛けられていたんだろう? 気になる。
「血が苦手なら後ろを見るな!」
後ろを見ずに走る仁。今日はよく走れている。いつもより腿が高く上がっていた。
「山や森は金獣だけの物ではない。連中の油断はそこにある。ふふふふふふ……」
後ろから聞こえるクレアさんの声が笑っている気がするが、あまり考えないことにした。
「その倒木の上を走れ!」
「下をくぐれ!」
様々な指示が飛ぶ。いったいどれだけ周到にトラップを用意したんだよ!
都度、背後から上がる悲鳴。
気のせいか、だんだんと声に悲壮さが増してきたような……。
だが、背後より迫る声や足音は、いっこうに減らない。むしろ数を増している。
「そりゃそうだ。金獣の一部族を全て敵に回したのだからな」
大きなストライドで走るクレアさん。ミニスカート無視?
「それはそうと、貴様、いつまでその子を抱いてるんだ?」
「はっ!」
仁は、小脇にチビッコを抱えたまま全力疾走している。まったくの無意識だった。
「いや、これは……」
「そこの角、直角にお茶碗!」
定点左九十度回頭する仁。
「うぉっとぉー!」
そこは崖。目もくらむような高低差。眼下には、白波を立て轟々と流れる大きな川。
ああ、これ、見たことある。
小学校最後の春休みの深夜映画だったっけ。
明日に向って撃て! って西部劇で、ブッチとサンダンスが、追っ手から逃げるために滝壺に飛び込むシーン。サンダンスは金槌だったんだよな、ハッハッハッ!
……。
「まさか、クレアさん」
「察しがいいな」
口の端に冷たい笑みを浮かべるクレア。目がとっても危険。
仁の、そして男子の唯一体外に出ている内臓器官が二個、キュッっと縮み上がった。
「その子はおいていく方がいい」
そういえばまだチビッコをダッコしたままだった。
遠隔操作された鉄人の様に、ギコギコした動きでチビッコを降ろす。チビッコは四つんばいで毛をプルプルさせた。
四つんばい?
「金獣の幼体は四足歩行だ。それより、覚悟はいいか?」
クレアはバックパックから、ポーチを取り出し二の腕に巻き付けた。
そして、残ったバックパックを放り投げた。そうそう、飛び込むには邪魔になる。
「ちょっと待って、ちょっと待って!」
「どーん」
チビッコが仁の足下に体当たりした。
……なにゆえ?
声を出す余裕など無い。崖の先端で両手をぐるぐる振り回しバランスを回復させる。何とかギリギリ耐えられそうだ。
「ほう! 頭のいい幼体だな。どれ」
仁の額をチョンと押すクレア。
「あーっ!」
バランスを崩した仁。文字通り、大の字に両手足を広げ、崖を落下していく。
何回転目かで見上げた上空に、飛び込みスタイルで宙に浮くクレアさんと、ゴムボールのように体を丸めて飛んでいる嬉しそうなチビッコを見た。
ふと無くなる現実感。すぐ後に続く、雪崩式バックドロップによる着水のショック。背骨が軋んだ!
水中に潜っているのは頭のどこかが理解していた。ただ、上下左右がまったく解らない。手と足がどこにあるのかも解らない。水中にいた。と思ったら顔が空気中に飛び出した。
次第に水中にいる比率が高くなっていき、次第に頭の中が白濁していった。だんだんどうでもよくなっていき……。
いつしか意識が薄れ、ついに記憶が途切れたのだった。
男性は身体が資本だと思う今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?