天気が読めるのは殿下ではなく私です
一 午後二時の婚約破棄
王宮の春の園遊会は、毎年かならず晴れる。
そう言われるようになって、今年で五年になる。理由は誰もが知っていた。王太子ギルベルト殿下が、天気を読むからだ。
「リーゼル・ハーゼルブルク。君との婚約を、今ここで破棄する」
満開の林檎の木の下で、殿下はよく通る声でそうおっしゃった。招待客のざわめきが波のように引いていく。
殿下の腕には、桃色のドレスの令嬢が寄り添っていた。ポンメル男爵家のミラ様。最近「晴れ乞いの巫女」と呼ばれている方だ。ミラ様がにっこり笑うと雲が切れる、という噂がある。
「君はいつも空ばかり見上げて、ため息をついている。まるで曇り空だ。王妃に必要なのは、ミラのように国を照らす笑顔だ」
「……ため息ではございません。雲の高さを見ているのです」
「そういうところが陰気だと言っている」
わたくしは口を閉じた。
言うべきことは、本当はひとつしかなかった。
――殿下。毎朝あなたの机に届いている「空の便り」は、わたくしが書いております。
十三歳の殿下に「明日は晴れるか」と聞かれ、答えたのが始まりだった。翌年からは毎朝、小さな紙に翌日の天気を書いて、侍従に届けさせた。殿下はそれを朝の会議で読み上げ、「天を読む王太子」と呼ばれるようになった。
わたくしは、それでいいと思っていた。殿下のお役に立てるなら、と。
けれど今、その言葉は喉の奥で止まった。ここで言っても、負け惜しみにしか聞こえないだろう。
「承知いたしました」
わたくしは膝を折った。
「では、明日からの便りは不要でございますね」
「便り? 何の話だ」
殿下は本当に、何の話かわからないというお顔をなさった。五年分の紙が、どこから届いていたのかさえご存じなかったのだ。
少しだけ、胸の奥が冷えた。
「いえ。お幸せに」
ポケットの中には、今朝書いたけれど渡しそびれた一枚が入っている。
《本日午後三時、西より驟雨。宴は二時半までに屋内へ》
わたくしはそれを、そっと握りつぶした。
会場を出る途中、庭師頭のヨーゼフとすれ違った。子どもの頃から温室で一緒に雲を眺めてきた老人だ。
「ヨーゼフ。三時に雨が来ます。温室の苗だけは、覆いをかけておいて」
「へい、お嬢様。……宴のほうは?」
「殿下には、晴れ乞いの巫女様がついていらっしゃるわ」
ヨーゼフは西の空をちらりと見て、黙って帽子を取った。
午後三時。
あとで聞いた話では、わたくしが去った二時半頃から、会場では妙なことが続いていたらしい。
燕が芝生すれすれを飛び交い、林檎の花が一斉に揺れた。蒸し暑いのに、西から急に冷たい風が吹きはじめた。年配の侍従が「殿下、そろそろ屋内に」と申し上げると、殿下は笑って手を振ったそうだ。
「心配いらない。今日はミラがいる」
ミラ様は嬉しそうに頷き、空に向かってにっこり微笑んだ。
殿下は乾杯の杯を掲げ、新しい婚約者の紹介を始めた。「彼女の笑顔は雲を払う」と言ったちょうどそのとき、太陽が隠れた。
西の丘から灰色の雲の壁が押し寄せ、園遊会の会場に大粒の雨が叩きつけた。ミラ様は両手を組んで一心に祈り、雨はますます強くなった。雷が一つ鳴り、楽団が楽器を抱えて逃げ出した。殿下の自慢の金の刺繍の上着は、あっという間に濡れて色が変わった。
「ミラ、もっと祈ってくれ!」
「祈ってます、祈ってますぅ!」
天幕の支柱が倒れ、焼き菓子の塔が崩れ、侯爵夫人の羽根飾りが風に飛ばされて池に落ちたという。
その頃、わたくしは先に屋敷へ戻る馬車の中で、王宮の方角が分厚い雨雲に呑まれていくのを窓から見ていた。
王宮の門を出る直前、遠くに見えた温室の苗だけが、白い覆いの下でまっすぐに立っていた。
二 風見の塔
ハーゼルブルク伯爵家の屋敷には、古い塔がある。
祖父が建てたもので、てっぺんに風見鶏が回り、壁には真鍮の晴雨計が掛かっている。祖父は若い頃、外洋船の船長だった。「海では、空を読めない者から死ぬ」というのが口癖だった。
祖父が亡くなってから、塔はわたくしの部屋になった。毎朝夕に晴雨計の目盛りを読み、風向きと雲の形を帳面に書きつける。燕の飛ぶ高さ、月の暈、遠くの山の見え方。十年続けた帳面は、もう棚三段分になる。
殿下と初めて言葉を交わしたのも、この塔の話がきっかけだった。
十三歳の夏、王宮の庭で開かれた子どもたちの茶会。殿下は翌日の遠乗りを楽しみにしていて、「明日は晴れるだろうか」と誰にともなく尋ねた。皆が「きっと晴れますわ」と答える中で、わたくしだけが空を見上げて言った。
「明日は昼から雷雨です。遠乗りは午前中になさいませ」
殿下はむっとしたお顔をなさった。けれど翌日は本当に昼から雷が鳴り、午前のうちに戻った殿下だけが濡れずに済んだ。
次の茶会で、殿下はわたくしのところへまっすぐ来て、こっそり言った。
「また教えてくれ。誰にも言うなよ」
それが、五年続いた便りの始まりだった。
十六の年の秋には、長雨の切れ目を読んで、麦の刈り入れを三日早めるよう書いた。殿下がそれを会議で進言し、その年、王領の麦は一粒も腐らなかった。広場で殿下の名が讃えられるのを、わたくしは人垣の後ろから聞いていた。
誇らしかった。本当に。
ただ、殿下がわたくしに「ありがとう」と言ったことは、思い返してみると一度もなかった。便りはいつの間にか、侍従が受け取って机に置くだけのものになっていた。
園遊会の夜、わたくしはいつもどおり塔に上った。
晴雨計の針を見て、息が止まりかけた。
朝より、目盛り六つ分も下がっている。
窓を開けた。西の空の高いところに、刷毛で掃いたような細い雲が何本も伸びている。祖父が「馬の尾」と呼んでいた雲だ。月には薄い暈がかかっていた。
帳面をめくる。十年前の春に一度だけ、同じ下がり方をしたことがある。そのときは三日後に大嵐が来て、港の漁船が十二隻沈んだ。
「三日後……いえ、もっと早いかもしれない」
そこで思い出した。
三日後の朝、南方交易の護送船団が出航する。王立艦隊の軍艦八隻と、商船二十隻あまり。出航日を決めたのは殿下だ。いつものように、わたくしの便りを読んで。
――《三日後より一週間、南西の風。航海日和》
先週、確かにそう書いた。あのときはそれが正しかった。けれど空は、もう変わってしまった。
訂正の便りを書こうとして、ペンが止まった。
明日からの便りは不要。そう申し上げたのは、わたくし自身だ。それに今の殿下は、ミラ様の祈りのほうを信じるだろう。
では、誰に伝えればいい。
階下で、扉を叩く音がした。
三 濡れた提督
「夜分に申し訳ない。王立艦隊、第二艦隊司令のオスカー・ブラントです」
玄関に立っていたのは、肩まで雨に濡れた背の高い男性だった。歳は三十前だろうか。潮焼けした顔に、船乗りらしい鋭い目をしている。
父が困った顔で振り返った。
「リーゼル。お前に用があるそうだ」
応接間で、提督は小さな紙片を一枚、卓に置いた。
見覚えのある紙だった。わたくしの字だ。
《明日、北東の風やや強し。午後、沖にうねり残る。小舟の出漁は控えるべし》
「二年前、王宮の廊下で拾いました」
提督は静かに言った。
殿下は読んだあと、机から紙が落ちても気になさらなかったのだろう。けれど、目の前の提督はそれを二年間、折り目ひとつつけずに持っていた。
「ずっと不思議だったのです。殿下の天気読みは、恐ろしく正確だ。それに、ときどき船乗りにしかわからない言葉が混じる。『うねりが残る』などは、陸の人間はまず言わない。殿下が船にお乗りになったことは、私の知るかぎり一度もありません」
「……」
「今日の園遊会で、殿下は何もおっしゃらなかった。三時の驟雨は、空を見ていれば読めたはずなのに。そして、婚約を破棄されたあなたは、二時半にお帰りになった」
提督はまっすぐにわたくしを見た。
「この字は、あなたのものですね」
「……なぜ、そこまで」
「この便りが出た翌日、私は港の漁師たちに出漁を止めさせました。殿下の天気読みだと言えば、皆おとなしく従う。午後、沖に大きなうねりが来ました。止めていなければ、小舟が何艘かひっくり返っていたでしょう」
提督は紙片を指先で押さえた。
「命を救った言葉の主が誰なのか、船乗りとしては知っておきたかった。それだけです。……それに」
「それに?」
「殿下の字は、もっと右上がりです。報告書で何度も見ていますから」
思わず、小さく笑ってしまった。笑ったのは、園遊会のあと初めてだった。
ずっと、誰かに気づいてほしかったのだと思う。
気づけば、目の奥が熱くなっていた。わたくしは小さく頷き、立ち上がった。
「お見せしたいものがあります。塔へどうぞ」
晴雨計を見た提督の顔色が変わった。
「これは……下がり方が普通ではない」
「十年前の春と同じです。帳面をご覧ください」
提督は帳面を一枚ずつめくった。ランプの明かりの下で、長い時間をかけて。
やがて顔を上げ、低い声で言った。
「十年前のあの嵐のとき、私は見習い水夫でした。港で、沈んでいく漁船を見ていた」
「遅くとも三日後……早ければ明後日の夜、西から来ます。三日後の朝に船団を出してはいけません」
「わかりました」
提督は迷わず答えた。
「明日の御前会議で、出航の延期を申し出ます。根拠を問われたら、あなたの名前を出してもかまいませんか」
わたくしは少し考えて、首を横に振った。
「わたくしの名は、殿下にとってはただの負け惜しみです。帳面と晴雨計の数字を、そのままお使いください。空のことは、空に証明してもらいましょう」
提督は一瞬目を丸くし、それから初めて笑った。日焼けした顔に、思いがけず人懐っこい皺が寄った。
「船乗りの孫らしいお言葉だ」
それから二人で、嵐の夜の合図を決めた。塔の窓のランプに青い覆いをかければ「まだ強まる」、白い覆いなら「峠を越えた」。港の灯台からは、了解の印に短く一度光を返す。
「もし、嵐の最中に港から船を出さねばならないことになったら」
提督が言った。
「風の切れ目を教えてください。ほんの半刻でもいい」
「嵐の真ん中が通るとき、風がいったん弱まって、向きが変わります。晴雨計がいちばん下まで落ちて、止まった瞬間です。そのときは、ランプを三度消して、また点けます」
「三度消灯。覚えました」
提督は帰り際、玄関で振り返った。
「ハーゼルブルク嬢。ひとつだけ、お聞きしても」
「どうぞ」
「五年間、悔しくはなかったのですか」
わたくしは少し考えた。
「悔しいと思うようになったのは、今日からです。それまでは、空が読めることが嬉しかっただけ」
「では、これからは」
提督は帽子をかぶりながら言った。
「読めたことを、ちゃんと誇ってください。あなたの便りで、港の誰かが今日も生きています」
扉が閉まったあと、わたくしはしばらく玄関に立っていた。雨の匂いの中に、ほんの少し潮の香りが残っていた。
四 御前会議
翌朝の御前会議には、わたくしも父の付き添いとして末席に座った。婚約を破棄されたばかりの娘が来ることに、ひそひそ声が起きたけれど、気にしないことにした。
護送船団の議題になると、殿下が立ち上がった。
「出航は予定どおり明後日の朝とする。ミラが昨夜、三日三晩祈ってくれると約束した。航海の無事は保証されている」
隣のミラ様が、胸の前で手を組んで頷いた。
「はいっ。お空にちゃんとお願いしておきました!」
誰かが咳払いをした。昨日の園遊会でずぶ濡れになった貴族は、この部屋に何人もいる。
「異議がございます」
オスカー提督が立った。
「第二艦隊は、出航の延期を進言いたします。明日の夜から明後日にかけて、西より大嵐が来るおそれがある」
「根拠は」
「晴雨計の急な下降。上空の馬の尾雲。月の暈。これは十年前、港の漁船十二隻が沈んだ春の嵐と同じ兆しです。記録はここに」
提督が帳面の写しを卓に広げた。殿下は見もしなかった。
「十年前の話など知らん。私の天気読みが外れたことがあるか?」
「昨日の午後三時に」
提督が淡々と言い、部屋に忍び笑いが広がった。殿下の顔に血が上った。
「あれはミラの祈りが……間に合わなかっただけだ!」
そのとき、玉座の国王エーリヒ陛下が口を開いた。
「ギルベルト」
「はい、父上」
「では、明日の天気を読んでみよ。今、ここで」
部屋が静まり返った。
殿下は窓のほうを向いた。空は薄く曇っている。殿下はしばらく空を見つめ、それから、ほんの一瞬だけ――わたくしのほうを見た。
いつも朝の机に届いていた紙を、探すような目だった。
わたくしは膝の上で手を重ね、何も言わなかった。
「……晴れ、です」
殿下は言った。
オスカー提督が、静かに付け加えた。
「明日は午前中は薄曇り、午後から南の風が強まり、夕刻に小雨。嵐の本体は明日の夜半過ぎです」
陛下は二人を交互に見て、長いため息をついた。
「船団の出航は、いったん見合わせとする。明日の夕刻に雨が降らなければ、ブラント提督の進言は誤りだったとして、明後日の朝、予定どおり出航させよう」
会議のあと、回廊で袖を引かれた。
振り向くと、ミラ様が立っていた。昨日の桃色のドレスではなく、地味な灰色の服を着ている。
「あ、あの、リーゼル様」
「何でしょう」
「わたし、本当にお祈りしたんです。昨日も、ちゃんと、晴れますようにって」
ミラ様は唇を噛んだ。
「でも降りました。わたし、晴れ乞いの巫女なんかじゃないのかも。……どうしたら、雲が読めるようになりますか」
意地悪を言う気には、なれなかった。この方はきっと、殿下に「君の笑顔で雲が晴れる」と言われて、それを信じただけなのだ。
「毎日、同じ時刻に、同じ窓から空を見ることです」
わたくしは言った。
「晴れた日も、曇った日も。見たものを書きとめて、翌日の空と比べる。祈るより、ずっと退屈ですけれど」
「退屈なのは、平気です」
ミラ様は真剣な顔で頷いた。
「わたし、空を見てるの、好きなので」
五 嵐の夜
翌日の夕刻、予報どおり小雨が降った。そして夜半過ぎ、嵐の本体が来た。
わたくしは一晩中、塔にいた。三十分ごとに晴雨計を読み、風向きを記し、窓辺のランプで港に合図を送った。最初に打ち合わせたとおり、青い覆いは「まだ強まる」、白は「峠を越えた」。
港の防波堤の灯台から、了解の光が返ってくる。オスカー提督は、あの灯台に詰めているはずだった。
風は屋根を剥がすような音を立て、塔は船のようにきしんだ。雨は横から窓を叩き、ランプの炎が何度も震えた。
祖父の声が聞こえた気がした。
――海では、空を読めない者から死ぬ。
だからわたくしは読む。目盛りひとつ、雲ひとつ、見落とさないように。
真夜中を過ぎた頃、塔の階段を誰かが駆け上がってくる音がした。
扉を開けたのは、ずぶ濡れのギルベルト殿下だった。外套から雨水が滴り、髪は額に貼りついている。
「殿下……どうしてここに」
「港から使いが来た。西の漁村の舟が一艘、夕方の小雨が止んだ隙に沖へ出て、まだ戻らないそうだ」
殿下の声は震えていた。
「村には、私の名で『明日は晴れ』と触れが出ていた。……会議のあと、侍従が勝手に。私が止めなかったからだ」
息を呑んだ。窓の外では、風がうなりを上げている。この嵐の中、小舟が持ちこたえられる時間は長くない。
「ブラント提督が、救助艇を出す用意をしている。だが、この風では港の外にも出られない。提督は、塔からの合図を待つと言っていた」
殿下はわたくしを見た。
「私に、何かできることはあるか」
五年間で、初めて聞く言葉だった。
わたくしは晴雨計の前を空けた。
「この針を見ていてください。目盛りの読み方はここに書いてあります。下がり続けている間は、四半刻ごとに数字を帳面へ。止まったら、すぐにわたくしを呼んでください」
殿下は黙って頷き、晴雨計の前に立った。
わたくしは窓に張りつき、雲の流れと風見鶏を見続けた。背後で、殿下がペンを走らせる音がした。
「……下がった。また一つ」
「書いてください」
「また下がった」
「書いてください」
何度目かのとき、殿下の声が変わった。
「止まった。リーゼル、針が止まった」
同時に、窓を叩いていた雨が、ふっと弱まった。耳の奥がツンと張りつめるような、奇妙な静けさが落ちてくる。風見鶏がぎしりと音を立てて、ゆっくりと向きを変えていく。西から、南へ。
嵐の真ん中が、今、この上を通っている。
わたくしはランプを掴み、三度消して、また点けた。
永遠のように長い一瞬のあと、灯台から短い光が一度返った。
「了解、です」
暗い港に、小さな灯りがいくつも動き出すのが見えた。救助艇だ。
風の凪いでいる時間は、半刻もない。殿下とわたくしは並んで窓の外を見つめ、どちらも何も言わなかった。
やがて風が逆向きに吹き返し、雨がまた横殴りになった。救助艇の灯りが、ひとつ、またひとつと港の中へ戻っていく。最後の灯りが防波堤の内側に入ったとき、灯台から長い光が二度返ってきた。
――全員、無事。
殿下が、その場にしゃがみこんだ。
「よかった……」
顔を覆った指の間から、震える息が漏れた。わたくしは何も言わず、殿下の書いた帳面の頁を見た。右上がりの字で、四半刻ごとの数字が、ひとつも欠けずに並んでいた。
夜明け前、晴雨計の針がようやく上がり始めた。
わたくしはランプに白い覆いをかけた。
灯台から、長く三度、光が返ってきた。打ち合わせにない合図だった。
朝になって、港の被害がわかった。倉庫の屋根がいくつか飛び、桟橋が一本流された。けれど、船は一隻も沈まなかった。漁村の舟の五人も、救助艇に引き上げられて全員が助かった。
もし予定どおり今朝出航していたら、船団は荒れ狂ううねりのまっただ中にいたはずだった。軍艦八隻、商船二十余隻、乗組員はあわせて二千人を超える。
昼過ぎ、王宮から使いが来た。
六 便りの宛先
謁見の間で、国王陛下はわたくしの帳面を一冊ずつ手に取った。
「十年分か」
「はい、陛下」
「この五年、ギルベルトが朝の会議で読み上げていた天気は、すべてそなたが書いたものか」
わたくしは少し迷ってから、答えた。
「書いたのはわたくしです。けれど、それを殿下のお言葉としてお届けすることを選んだのも、わたくしです。殿下だけの罪ではございません」
陛下は目を細めた。
「庇うのか」
「事実を申し上げております。殿下が悪いのは、五年間、一度も便りの差出人をお尋ねにならなかったこと――そして、その言葉の重みをご自身の目で確かめようとされなかったことだけです」
横で控えていた殿下が、顔を伏せた。
陛下は嵐の夜の帳面を開き、右上がりの字の並ぶ頁で手を止めた。
「これは、そなたの字ではないな」
「殿下がお書きになりました。四半刻ごと、ひとつも欠かさずに」
陛下は長いこと、その頁を見ていた。
「ギルベルト。漁村への触れのこと、申し開きはあるか」
「ございません」
殿下は顔を上げた。
「父上。私は五年間、自分が何を読み上げているのかも知らずに、民に天気を告げておりました。昨夜、初めて針が下がるのを自分の目で見ました。……恐ろしかった。あの数字の向こうに、人が乗っているのだと」
殿下は膝をついた。
「どうか、空の読み方を学ぶ機会をお与えください。王太子の座は、その後でお決めいただきたい」
陛下の裁定は、短かった。
王太子ギルベルトは、北の果ての測候島に三年間赴任する。島の小さな測候所で、毎日の観測記録を自分の手でつけること。三年後、一日も欠かさず記録が揃っていれば、王都に戻ることを許す。それまで、王太子の位は預かりとする。
殿下は深く頭を下げた。
謁見のあと、回廊で殿下に呼び止められた。
「リーゼル」
「はい」
「……また、便りを書いてくれないか。島にいる間だけでいい。私には、空のどこを見ればいいのかもわからない」
わたくしは、殿下の顔をしばらく見つめた。十三歳のとき、「明日は晴れるか」と聞いてきた少年の面影が、まだ少しだけ残っていた。
「殿下。明日の天気は、ご自分で空を見てお確かめくださいませ」
それから、一冊の薄い帳面を差し出した。
「ただ、見方だけはお教えします。雲の名前と、晴雨計の読み方と、燕の高さ。最初の頁に書いておきました。あとは三年、毎日見上げれば、きっと読めるようになります」
殿下は帳面を受け取り、子どものように両手で抱えた。
「ありがとう」
五年分の便りの中で、その言葉を聞いたのは初めてだった。
ちなみにミラ様は、「お空に近い島なら、毎日たくさん空が見られます!」と言って、殿下についていった。測候所の記録係に志願したそうだ。毎日空を見上げるのが好きなのは本当らしいので、案外いい記録係になるのかもしれない。
北へ向かう船が出る朝、わたくしは桟橋へ見送りに行った。
島へ渡る補給船の護衛には、第二艦隊の小型艦が一隻つくことになっていた。指揮をとるのは、オスカー提督その人だった。
「島まで四日。天気はいかがですか、台長殿」
まだ正式な任命前なのに、提督はわざとそう呼んだ。わたくしは空を見上げた。
「二日目の午後に北西の風が強まります。島影に入るまでは、帆を一段縮めておいてください。三日目からは晴れ」
「承知しました」
甲板の上から、殿下がこちらを見下ろしていた。手には、わたくしが渡した薄い帳面を握っている。
「リーゼル」
殿下が声を張った。
「二日目の午後、北西の風、だな。……自分でも、確かめてみる」
わたくしは、黙って一礼した。
船が岸を離れていく。ミラ様が甲板から大きく手を振り、殿下はその横で、帳面を開いたまま空を見上げていた。
四日後、提督から鳩が届いた。
《二日目午後、北西の風。予報どおり。殿下が帆を縮める号令を自分でかけたいと仰るので、かけていただきました。全員無事に島へ到着。 O・B》
七 明日は晴れ
それから一月後、わたくしは新しく作られた王立気象台の初代台長になった。
といっても、職員はわたくしと庭師頭のヨーゼフと、雲の好きな見習いが二人だけ。仕事場は相変わらず、祖父の塔だ。
朝の会議には、もう紙を届けない。わたくし自身が出て、自分の声で、明日の空を読み上げる。
最初の朝はさすがに声が震えたけれど、三日目には慣れた。「うねりが残る」と言っても、誰も首をかしげなくなった。
北の測候島からは、週に一度、観測記録の写しが船便で届く。右上がりの字と、丸っこい字が交互に並んでいる。
三週目の写しの端に、丸っこい字で書き添えてあった。
《リーゼル様へ。きのう、はじめて当たりました! 「あしたは霧」って書いたら、本当に霧でした。殿下が「祈ったのか」って聞くので、「見たんです」って答えました。ミラ》
その下に、右上がりの字で一行。
《ミラの予報は、私より当たる。 G》
わたくしは写しを帳面に挟み、窓の外を見た。北の空は高く晴れていた。島もきっと、今日は晴れている。
延期されていた護送船団は、嵐のひと月後に出航した。
見送りの桟橋で、オスカー提督がわたくしに一枚の紙を差し出した。
「航海の間、ひとつお願いがあります」
紙には、船団の予定航路と、沿岸の岬にある灯台の名が順番に書いてあった。
「毎朝、航路の先にある灯台へ鳩で天気の便りを送っていただけませんか。灯台の光で沖の私の艦へ繋ぎます。……宛先は、私です」
「艦隊の公式な依頼でしたら、気象台として承ります」
「公式な依頼です。……半分は」
提督は咳払いをして、海のほうを向いた。耳が少し赤かった。
「もう半分は、私的なお願いです。帰ってきたら、あなたの帳面の続きを、隣で読ませてほしい。できれば、これから先、ずっと」
潮風が吹いて、わたくしの髪を揺らした。
嵐の夜明け、灯台から三度返ってきた長い光を思い出した。打ち合わせにない合図。あれは何だったのかと、一月の間ずっと聞けずにいた。
「あの夜の、三回の光は」
「船乗りの古い合図です」
提督は振り向かずに答えた。
「『ありがとう』と、『無事だ』と、それから」
言葉が途切れた。わたくしは続きを待った。
「……帰ったら、言います」
わたくしは笑ってしまった。空を見上げる。
西の空は高く澄み、雲ひとつない。晴雨計の針も、今朝からずっと高いところで止まっている。
「提督。気象台長として、船団の帰港日の天気を予報いたします」
「お願いします」
「帰港日は、快晴。南西の微風。波穏やか」
わたくしは提督の手から紙を受け取り、裏に一行書き足して返した。
《結婚式に、ちょうどいいお天気です》
提督は紙を読み、ゆっくりと振り向いた。日焼けした顔に、あの夜と同じ人懐っこい皺が寄る。
その笑顔は、どんな晴れ空よりも明るかった。
わたくしの予報は、その日も外れなかった。




