第9話「夏祭り」
八月の第一土曜日の夕方、多摩市内の小さな神社で夏祭りがあった。
誠司があかりに「行くか」と送ったのは、三日前だった。
深く考えずに送った。送ってから、深く考えた。
夏祭りは、昼間より夜が長い。屋台の光の中を、二人で歩く。
それがどういうことか、わかっていた。わかっていて、送った。送ってしまってから、返信を待った。
あかりの返信は、三十分後に来た。
『行く』
それだけだった。
誠司はその二文字を見て、息を一つ吐いた。
神社までの道は、浴衣姿の人々で賑わっていた。
誠司はTシャツにチノパンという格好で、待ち合わせの鳥居の前に立っていた。
里佳には「会社の同僚と飲む」と言った。
花には「早く帰るよ」と言った。花が「お土産買ってきて」と言った。
お土産。その言葉が、今夜も頭の隅に引っかかっていた。
あかりが来た。
紺地に白い花柄の浴衣を着ていた。
髪を上にまとめて、うなじが出ていた。誠司は一瞬、目を逸らした。
逸らしてから、逸らしたことを悟られたくなくて、もう一度見た。
「浴衣、久しぶりに着た」とあかりは言った。少し照れているようだった。
「似合ってる」と誠司は言った。
お世辞ではなかった。本当に、似合っていた。
でも言ってから、言うべきではなかったかもしれないと思った。
似合ってる、という言葉は、ただの感想ではない。今夜の二人の間では、ただの感想では済まない。
あかりは「ありがとう」と言って、鳥居の方を向いた。
二人で境内へ入った。
神社の境内は、屋台の光と人の熱気で満ちていた。
焼きそばの匂い、綿菓子の甘い香り、線香の煙。子どもたちの笑い声、太鼓の音、お囃子のリズム。
多摩の夏祭りは、薩摩川内のそれとは規模が違ったが、祭りの持つ独特の浮かれた空気は同じだった。
日常から少しだけ逸脱することを、祭りは許してくれる。
誠司はその空気を、今夜だけは都合よく使っていた。
二人で屋台を冷やかしながら歩いた。あかりがリンゴ飴を手に取って、「食べる?」と誠司に差し出した。誠司は「お前が食べろ」と言った。
あかりがかぶりついて、「甘い」と言った。その表情が、子どものようだった。
誠司は笑った。
心の底から、笑った。
里佳と花と来る祭りも、嫌いではない。でも今夜の笑い方は、違う種類のものだった。
体の力が抜けた、という感じの笑いだった。
人が増えてきたのは、日が完全に落ちてからだった。
境内の参道は、両側の屋台の光に照らされて、昼間とは別の顔を持っていた。オレンジ色の光の中を、浴衣姿の人々が行き交う。子ども連れの家族、若いカップル、老夫婦。誠司とあかりは、その流れの中を並んで歩いた。
人が多くなるにつれて、二人の距離が縮まった。
物理的な話だ。人に押されて、自然と近くなる。誠司はあかりが隣にいることを、意識しないようにしながら、意識していた。
本殿に向かう階段の手前で、人の流れが滞った。
前から来る人の波と、後ろから来る人の波が、狭い参道でぶつかった。
誠司は後ろからの人波に押されて、半歩前へ出た。あかりも同じように押されて、二人の距離がさらに縮まった。
誠司の手の甲が、あかりの手に触れた。
一瞬のことだった。
でも誠司は、その一瞬を感じた。あかりの手の、体温を。
離すべきだった。
すぐに離すべきだった。
でも誠司の手は、離れなかった。
人波に押されたまま、という言い訳が、まだ使えた。人が多いから、という言い訳が、まだ使えた。誠司はその言い訳を使った。使いながら、これが言い訳であることを知っていた。
あかりも、動かなかった。
振り払わなかった。
人波が少し落ち着いて、前に進めるようになった。それでも、二人の手は離れなかった。
数秒か、十数秒か。
時間の感覚が、おかしくなっていた。
あかりが、静かに手を引いた。
強く振り払うのではなく、ただ静かに、引いた。誠司は引かれるまま、手を離した。
二人とも、前を向いたまま、何も言わなかった。
お囃子の音が、境内に響いていた。
本殿でお参りをした。
二人で並んで、賽銭を入れて、手を合わせた。
誠司は目を閉じながら、何を祈ればいいのかわからなかった。
祈れることが、何もなかった。
自分が今夜ここにいることの意味を、神様に向かって言葉にできなかった。
言葉にしたら、それが何であるかを、神様の前で認めることになる。
目を開けた。
あかりはまだ目を閉じていた。
何を祈っているのか。
聞けなかった。聞いてはいけなかった。
あかりが目を開けた。誠司と目が合った。
二人とも、少し笑った。笑い方が、少し困ったような笑い方だった。
帰り道、二人は神社の裏手の静かな道を歩いた。
祭りの喧騒から少し離れると、虫の声が聞こえた。夏の夜の虫の声は、騒がしいのに、どこか寂しい。
誠司はその音を聞きながら、今夜のことを頭の中で整理しようとしていた。整理できなかった。
「楽しかった」とあかりが言った。
「ああ」と誠司は言った。
「お祭り、久しぶりで」
「鹿児島の祭りの方が、活気があるよな」
「そうだね。でも今夜は、これくらいが良かった」
これくらいが良かった。
その言葉の意味を、誠司は考えた。人が少なくて、静かで。二人でいられる空気があって。そういう意味だろうか。
考えながら、あかりの横顔を見た。
浴衣のうなじに、夜風が当たっていた。
誠司は視線を前に戻した。
「さっき」と誠司が言いかけた。
「言わないで」とあかりが言った。
静かな、しかし迷いのない声だった。
誠司は口を閉じた。
言いかけた言葉が、どんな言葉だったのかを、二人とも知っていた。だから言わなくて良かった。
言ってしまったら、この夜が別のものになる。言わないまま、この夜を今夜だけのものにしておく。
あかりの「言わないで」は、そういう意味だった。
誠司には、わかった。
わかったから、言わなかった。
神社の鳥居の前で、別れた。
「気をつけて」と誠司は言った。
「うん」とあかりは言った。
それだけだった。
あかりが歩き始めた。浴衣の後ろ姿が、夜の道に続いていく。
誠司は少しの間、その後ろ姿を見ていた。
見ていることが、できなくなってから、歩き始めた。
家に帰ると、玄関の電気がついていた。
ドアを開けると、リビングから足音がして、花が飛び出してきた。
「パパ!」
花は誠司の腰に、両腕を回して抱きついた。勢いがよくて、誠司はよろけた。
「どうした」と誠司は言った。
「さびしかった」と花は言った。顔を誠司の腹に押しつけたまま、くぐもった声で言った。
「パパ、最近いないことが多い」
誠司は、固まった。
花の小さな腕が、腰に回っている。その重さを、誠司は感じた。十歳の子どもの、細い腕の重さ。
「ごめんな」と誠司は言った。
「お土産は?」と花が顔を上げた。目が少し赤かった。本当に泣いていたのか、眠かったのか、誠司にはわからなかった。
「忘れた」と誠司は言った。
「もう」と花は言って、また腹に顔を押しつけた。
誠司は花の頭に手を置いた。
さらさらした髪の毛。小さな頭。
今夜、神社で触れたあかりの手の体温が、まだ手のひらに残っていた。
同じ手で、娘の頭を撫でていた。
誠司は目を閉じた。
胸の中で、何かが軋んだ。痛い、という感覚ではなかった。ただ、軋んだ。何かが、歪んでいくような音がした。
「お土産、今度必ず買ってくるから」と誠司は言った。
「約束?」と花が言った。
「約束」と誠司は言った。
里佳がリビングの入り口に立っていた。
「おかえり」と里佳は言った。
「ただいま」と誠司は言った。
里佳は何も言わなかった。笑っていた。いつもの、穏やかな笑顔だった。
その笑顔が、今夜の誠司には、刃のように感じた。
責めていないから、刃だった。
その夜、風呂に入りながら、誠司は今夜の自分を振り返った。
触れた。離さなかった。
言い訳は使えない。人波に押されたのは本当だ。
でも離さなかったのは、誠司の意志だった。あるいは意志の欠如だった。
どちらにしても、誠司がそうしたのだ。
花の「さびしかった」という言葉が、耳に残っていた。
最近いないことが多い、と花は言った。
体はここにある。でも花には、わかるのかもしれない。父親の心が、どこか別の場所にあることが。
十歳の子どもに、気づかれている。
誠司は湯船の中で、天井を見た。
白い天井。何の変哲もない天井。
自分は何をしているのか。
その問いに、答えが出なかった。出せなかった。
答えを出してしまったら、どちらかを選ばなければならなくなる。今の誠司には、選ぶ勇気も、諦める勇気も、なかった。
ただ、軋んでいた。
胸の中で、静かに、軋んでいた。




