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あなたのいない場所で、愛している 永瀬誠司とあかりの物語   作者: かーすけ
【夏】情熱 燃えてはいけない火 

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8/23

第8話「誤解の種」

 八月に入った。

 東京の夏は、容赦がなかった。


 朝のランニングに出ると、まだ六時前だというのに空気が熱を持っていた。多摩川沿いの木々は濃い緑のまま動かず、川面だけが朝の光を受けて白く光っていた。誠司は橋の上で立ち止まり、汗を拭いた。

 先週の土曜日のことを、まだ考えていた。

 新宿の喫茶店。夏の夜風。街路樹の下のベンチ。そして改札の前での、あかりの一秒。

 あの一秒の眼差しが、ずっと残っていた。

 言葉にならなかった言葉が、一秒の目の中にあった。誠司にはわかった。わかってしまったから、「ああ」と答えた。答えてしまった。

 欄干に両手をかけて、川を見た。

 水が流れていく。止まらない。どんなに見ていても、止まらない。

 誠司は二十年前のことを考えていた。

 あかりに、誤解させたままにした。

 その事実が、今朝はいつもより鋭く胸に刺さった。


 大学二年生の春から、誠司の生活は少しずつ変わり始めた。

 一年生のころは、東京という街に圧倒されて、ただ日々をやり過ごすのに精いっぱいだった。鹿児島から出てきた自分が、この街でやっていけるのかどうか、常に不安だった。

 講義についていけるか。バイト先でうまくやれるか。同じ大学の学生たちは、みんな自分より要領がよく見えた。都会育ちの人間の身のこなしに、誠司はいつも少し遅れをとっている気がした。

 あかりへの手紙を書くのは、そんな毎日の中で、唯一落ち着ける時間だった。

 机に向かって、万年筆を持つ。今日あったことを書く。東京の街のことを書く。あかりのことを考えながら書く。その時間だけは、鹿児島にいるころの自分に戻れた気がした。

 二年生になって、ゼミが始まった。

 三宅由希と出会ったのは、そのゼミだった。


 由希は、誠司とは正反対の人間だった。

 東京生まれの東京育ち。要領がよく、話がうまく、初対面の人間をすぐに笑わせることができた。ゼミの初日、誠司が端の席で黙っていると、由希が隣に座って「鹿児島から来たんでしょ、訛りで分かったよ」と笑いかけてきた。

 誠司は面食らった。

 訛りを指摘されたのが恥ずかしかったわけではない。この街で初めて、自分から話しかけてきた人間が現れたことに、戸惑った。

「そうだ」と誠司は言った。

「いいじゃん、鹿児島。焼酎うまいし」と由希は言った。

 それが始まりだった。

 由希とは、すぐに友人になった。友人、という言葉が正確かどうか誠司には自信がなかったが、少なくとも由希はそういう距離感で誠司に接した。ゼミの後に図書館で勉強した。課題で行き詰まると電話をかけ合った。何人かのグループで映画を見に行った。

 誠司にとって、由希は東京で初めてできた「話せる相手」だった。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 誠司の中では。


 問題は、手紙の中で由希の名前を書いたことだった。

 悪気はなかった。本当に、何も考えずに書いた。

「同じゼミの由希と図書館で勉強した」

「由希たちと映画を見た」。

 日常の出来事として、書いた。

 あかりからの返事が、少し変わったのは、その頃だった。

 内容は変わらない。工場の話、寮の話。でも文章の端に、何かが滲んだ。うまく言えないが、読んでいて、どこかが違った。最後の一段落の「会いたい」という言葉が、以前より少し短くなった気がした。

 誠司は気のせいだと思った。

 気のせいだと思うことにした。


 変化が明確になったのは、大学二年生の秋だった。

 その頃、誠司は自分の中に、ある感情が育ちつつあることに気づいていた。

 あかりへの気持ちとは、別の感情だ。

 あかりのことは、好きだった。距離があっても、時間がかかっても、それは変わらなかった。愛知にいるあかりのことを、毎日どこかで考えていた。

 でも同時に、誠司の中に別のものがあった。

 自分はこのままでいいのか、という問いだった。


 東京で二年間暮らして、誠司は少しずつ見えてきたことがあった。この街には、自分の知らない世界がある。鹿児島の漁村で育った自分には、想像もしなかった生き方をしている人間がいる。大学を出て何になるか。どこで働くか。どう生きるか。そういうことを、真剣に考え始めていた。

 考えれば考えるほど、誠司は自分の小ささを感じた。

 鹿児島から出てきた、漁師の息子。父親は体が強くて無口で、息子に多くを語らなかった。母親は「東京の大学へ行け」と言い続けた。その言葉に従って東京へ来たが、来てみると、周囲の人間との差を毎日感じた。育ってきた環境の差、経験の差、言葉の差。

 そういう感覚の中で、誠司はあかりへの手紙を書く速度が落ちた。

 書けなかったのではない。書く言葉が、変わった。

 以前は、あかりへの手紙に、今日あったことを全部書いた。東京の街のこと、大学のこと、不安なこと、楽しかったこと。全部書いた。

 でもある頃から、書けないことが増えた。

 自分の情けなさを、書けなかった。

 周囲に遅れをとっている感覚を、書けなかった。

 由希たちと話していると楽しいのに、あかりへの手紙を書こうとすると言葉が出てこない夜があることを、書けなかった。

 書けないことが増えるほど、手紙の間隔が空いた。


 二年生の冬、由希に言われたことがある。

 図書館の帰り道、二人で歩きながら、由希が唐突に言った。

「永瀬って、彼女いるの」

「いる」と誠司は言った。

「遠距離?」

「ああ」

「大変だね」と由希は言った。責めるでも、同情するでも、揶揄するでもない、ただ事実を確認するような声だった。

「大変というか」と誠司は言いかけて、止まった。

「というか?」

「自分が、釣り合ってるのかどうか、わからなくなることがある」

 言ってから、誠司は驚いた。こんなことを誰かに言ったのは、初めてだった。

 由希は少し考えてから言った。「釣り合うって、何で決まるの」

「わからない。でも彼女は、俺の知らない間に、どんどん強くなってる気がして」

「強くなってる?」

「一人で愛知に行って、工場で働いて、一人で生きてる。俺は東京に来てから、ずっとどこか頼りない。そのくせ東京にいることで、何かが変わっていく。変わっていく自分を、あの人に見せたくない」

 由希はしばらく黙っていた。

 それから言った。

「それ、本人に言ったほうがいいよ」

 誠司は「そうだな」と言った。

 でも言わなかった。

 言えなかった。

 あかりに弱さを見せることが、できなかった。強くあらねばならなかった。手紙の中では、いつも少し強い誠司でいようとした。不安を書かなかった。迷いを書かなかった。

 その結果、手紙の中の誠司は、だんだん薄くなっていった。


 三年生の春、誠司はあかりに会いに行った。

 愛知へ行くのは、久しぶりだった。半年ぶりか、もう少し経っていたかもしれない。

 豊田の駅であかりを待ちながら、誠司は緊張していた。久しぶりだから、という理由だけではなかった。自分の中で何かが変わっていることを、あかりに気づかれたくなかった。

 あかりが来た。

 半年前より、少し大人になっていた。工場で働き続けた体が、以前よりも確かな輪郭を持っていた。目の光が、強くなっていた。

 誠司は、その変化を見て、胸が痛くなった。

 あかりは一人で、確実に強くなっていた。

 自分は、どうだったか。

 二日間、豊田を歩いた。楽しかった。あかりと並んで歩くと、東京での居心地の悪さが消えた。鹿児島にいたころの自分に戻れた。

 でも同時に、誠司は思っていた。

 俺は、あかりに相応しいのか。

 この問いが、頭から離れなかった。

 愛知を去る日、名古屋駅のホームであかりと別れた。新幹線に乗り込みながら、誠司は振り返った。あかりがホームに立っていた。手を振っていた。

 誠司も手を振った。

 新幹線が動き出した。あかりの姿が小さくなって、消えた。

 誠司は座席に深く座って、目を閉じた。

 また来る、と思った。必ず来る、と思った。

 でもその「必ず」を、あかりに言わなかった。

 言えばよかった、と気づいたのは、新幹線が静岡を過ぎたころだった。


 三年生の秋、誠司はあかりへの手紙を書いた。

 最後の手紙になるとは、思っていなかった。

 その手紙には、こう書いた。

 最近、自分のことがわからなくなることがある。東京に来て、いろんなものを見て、いろんな人間に会って、自分が何者なのかを毎日問われている気がする。答えが出ない。そういう時期なのかもしれない。でも一つだけ確かなことがある。お前のことを考えると、落ち着く。だから、近いうちに会いに行く。待っていてくれ。

 書き終えた。

 封をしようとして、もう一度だけ読み返した。

 近いうちに会いに行く。待っていてくれ。

 その言葉を、自分で書いた言葉を、もう一度確かめた。これを送っていいか、最後に確認した。いい、と思った。これは送るべき言葉だ、と思った。

 封筒に入れて、机の上に置いた。

 明日、切手を買ってから出そうと思った。

 でも翌日、バイトが長引いて、切手を買いそびれた。その翌日も、講義が詰まっていた。封筒は机の上に置いたまま、二日が過ぎた。

 三日目に、母親が上京してきた。

 誠司は「今日は遅くなる」と母親に言って、朝から出かけた。

 帰ってきたとき、封筒は机の上から消えていた。

 あかりに出したと思った。母親が気を利かせてポストに入れてくれたのだと思った。

 返事を待った。

 一週間待った。

 二週間待った。

 返事は来なかった。


 誠司は不思議に思った。あかりは必ず返事を書いてくれた。

 遅くても、必ず。なのに、来なかった。

 電話をした。

 あかりは出た。

 声は普通だった。少し疲れているようにも聞こえたが、普通だった。

「手紙、届いた?」と誠司は聞いた。「え?」とあかりは言った。

「手紙」と誠司はもう一度言った。「……届いてないと思う」とあかりは言った。

 誠司は電話を持ったまま、考えた。

 ポストに入れたはずだ。でも届いていない?

 誤配か。あるいは、途中で何かがあったか。

「もう一度書くよ」と誠司は言った。

「うん」とあかりは言った。

 でも誠司は、もう一度書かなかった。

 書こうとするたびに、あの手紙に書いた言葉が頭に浮かんだ。近いうちに会いに行く。待っていてくれ。その言葉を、また書くことができなかった。一度書いて、届かなかった言葉を、もう一度書く勇気が出なかった。

 待っていてくれ、と言っておいて、届かなかった。

 それを、もう一度言えるほど、誠司は強くなかった。


 それから三ヶ月が経った。

 あかりからの手紙も、来なかった。

 電話は、たまにした。でもお互いの言葉が、少しずつ短くなっていた。以前は電話口で笑い合えたのに、笑い方を忘れたような沈黙が増えた。

 ある夜の電話で、あかりが「元気そうで、よかった」と言って切った。

 その言い方が、引っかかった。

 元気そうで、よかった。まるで遠くの知人に言うような言葉だった。誠司は電話を切ってから、その言葉をしばらく考えた。

 何かが、終わりに近づいている。

 その予感があった。

 でも誠司は、止める言葉を出せなかった。止めようとするたびに、自分の情けなさが邪魔をした。俺には、あかりを引き止める資格があるのか。東京で自分の小ささを毎日感じている自分に、愛知で一人強くなっていくあかりを、引き止める資格があるのか。

 資格、などというものは、恋愛にはない。

 今の誠司ならわかる。

 でも二十二歳の誠司には、わからなかった。


 あかりから「結婚する」と連絡が来たのは、その翌年の春だった。

 電話ではなく、手紙だった。

 誠司は封筒を開けながら、手が震えた。

 短い手紙だった。

 銀行員の男性と結婚することになった。いい人だと思う。誠司くんには直接言いたかった。今まで、ありがとう。


 誠司は手紙を読み終えて、しばらく動けなかった。

 アパートの狭い部屋の中で、床に座ったまま、手紙を持っていた。

 ありがとう。

 その言葉が、終わりを意味していた。

 ありがとうは、終わりの言葉だ。続きを求める言葉ではない。

 電話をしようとした。

 受話器を持った。

 あかりの番号を押そうとして、止まった。

 何を言う。今さら何を言う。届かなかった手紙のことを言う。待っていてくれと書いたのに届かなかったことを言う。それを言って、どうなる。

 あかりはもう決めた。決めた人間に、今さら「待ってくれ」と言えるか。

 言えなかった。

 受話器を置いた。

 誠司はその夜、万年筆を取り出した。

 あかりへの返事を書こうとした。

 書けなかった。

 何を書いても、嘘になる気がした。おめでとう、と書けば嘘だ。行かないでくれ、と書けば今さらだ。ありがとう、と書けば、あかりの「ありがとう」の真似になる。

 便箋を何枚も出して、何枚も無駄にした。

 結局、何も書けなかった。

 返事を出さないまま、誠司は万年筆のキャップを閉めた。

 インクはまだ、たっぷり残っていた。


 現在に戻る。

 八月の朝、橋の上で多摩川を見ていた誠司は、ゆっくりと息を吐いた。

 あの頃の自分の臆病さを、今さら責めても仕方がない。二十二歳の自分には、それが精いっぱいだった。弱かった。情けなかった。でもそれが、あの頃の誠司という人間だった。

 ただ。

 届かなかった手紙のことを、あかりは知らない。

 あかりは「誠司が冷めた」と思っているかもしれない。手紙が来なくなって、由希という名前が増えて、だから冷めたと思っているかもしれない。

 そしてあかりは、誠司が「待っていてくれ」と書いた手紙が存在することを、知らない。

 その手紙は、どこへ行ったのか。

 今となっては確かめようがない。誤配か。紛失か。あるいは——誠司はそこで思考を止めた。それ以上考えると、取り返しのつかない怒りが出てきそうで。

 欄干から手を離した。

 走り始めた。

 多摩川沿いの朝の空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。

 あかりに、話さなければならない。

 いつか、話さなければならない。

 その「いつか」が、だんだん近づいていることを、誠司は感じていた。近づいていることが、怖くもあり、どこかほっとするようでもあった。

 二十年間、誰にも言えなかったことを。

 あかりだけに、言わなければならない。


 その日の夜、誠司はスマホを持ったまま、書斎の椅子に座っていた。

 LINEのあかりとのトークを開いた。

 今日のあかりからのメッセージは、昼に届いたものだった。

『今日、ドラッグストアで鹿児島の麦茶を見つけた。買ってしまった』

 誠司は少し笑って、返信を打った。

『俺も買う。どこの店?』

 既読がついた。

 返信が来た。

『聖蹟の駅前のドラッグストア。でも、なんで鹿児島の麦茶が多摩にあるんだろうね』

 誠司は返信を打ちかけて、止まった。

 別のことを、打ちたかった。

 聞きたいことがある、と打ちたかった。あの頃のことを、話せるか、と打ちたかった。

 でもまだ、打てなかった。

 今夜はまだ、その言葉を持つ勇気が足りなかった。

 誠司は結局、こう打った。

『縁があるんだろう。俺たちみたいに』

 送信した。

 すぐに既読がついた。

 返信まで、長い時間がかかった。

 誠司は待った。

 待ちながら、あかりが今、どんな顔をしているかを、想像していた。

 返信が来た。

『そうだね』

 たった四文字だった。

 でもその四文字の中に、あかりが長い時間をかけて選んだ言葉の重さがあった。

 手紙を書いていたころの、時間をかけた言葉の重さが。

 誠司はスマホを置いた。

 窓の外で、夏の夜が続いていた。

 多摩川の方角に、街灯が一つ、静かに光っていた。

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