第7話「東京、夏の始まり」
七月の第二土曜日の朝、誠司は家族に「同期と飯を食う」と言った。
嘘だった。
生まれて初めて、里佳に嘘をついた——と思ってから、そうではないと気づいた。嘘をついたのは今日が初めてではない。先月の藤棚の日も、「在宅の合間に少し散歩した」と言った。その前の週も、LINEをしながら「仕事のメールだ」と言った。
嘘は、少しずつ積み重なっていた。
積み重なっていることに、今朝初めて気づいた。
誠司は玄関で靴を履きながら、リビングの方を見た。里佳が花の髪を結ってやっていた。花が「いたい」と言って、里佳が「じっとしてて」と笑っていた。日曜の朝の、何でもない風景。
誠司は「行ってくる」と言った。
里佳が「いってらっしゃい」と言った。花が「パパ、お土産買ってきて」と言った。
扉を閉めた。
夏の朝の光が、眩しかった。
待ち合わせは新宿だった。
南口の改札前。誠司は五分前に着いて、人の流れを見ていた。
土曜の新宿は、多摩とは空気が違う。人の密度が高く、音が多く、光が強い。誠司はこの街が、昔から少し苦手だった。大学時代は慣れようとして、慣れないまま卒業した。
あかりの姿が見えた。
白いブラウスに、紺のパンツ。髪を少し上でまとめている。
人混みの中を、少し急ぎ足で歩いてくる。誠司を見つけて、歩調を緩めた。
その一瞬の、歩調を緩めた瞬間が、誠司にはなぜか鮮明に見えた。
「待った?」とあかりが言った。
「いや」と誠司は言った。
先月の藤棚の日と、同じ会話だった。でも今日は、拓海がいない。緩衝材がない。二人の間に、直接、夏の空気があった。
「どこか、決めてた?」とあかりが言った。
「喫茶店でいいか。落ち着いて話せるところ」
「うん」
二人で並んで歩き始めた。
歩幅が合う。相変わらず、合う。誠司は意識しないようにしながら、意識していた。
店は、大通りから一本入った静かな路地にあった。
古い喫茶店で、木のカウンターと、革張りのソファ席が並んでいた。
コーヒーの香りが濃く、照明が少し暗く、外の夏の光とは別の時間が流れているような場所だった。
誠司が窓から遠い奥の席を選んだのは、無意識だったかもしれない。あるいは、意識的だったかもしれない。
二人で向かい合って座った。
メニューを開いた。
メニューを読むふりをしながら、誠司は落ち着かなかった。向かいにあかりがいる。テーブルを挟んで、一メートルの距離にあかりがいる。これが何でもないことのはずがないのに、何でもないことのように振る舞わなければならない。その矛盾が、メニューの文字を滲ませた。
コーヒーを頼んだ。あかりはアイスティーを頼んだ。
店員が去ってから、少し沈黙があった。
「暑かった?」と誠司が言った。
「電車の中は涼しかった。外が暑くて」
「七月はまだましで、八月になったら本当に嫌だな」
「東京の夏、慣れた?」
「二十年いても慣れない」
あかりが少し笑った。「私も。鹿児島の夏とは、暑さの種類が違う気がする」
「向こうは蒸れる暑さだよな」
「こっちはアスファルトの暑さ」
他愛のない話だった。
でもその他愛のなさの中に、二人とも必死でいた。話し続けることで、別の何かを遠ざけようとしていた。
コーヒーが来た。
誠司はカップを両手で持って、一口飲んだ。苦かった。その苦さが、少し頭を冷やした。
「あかり」と誠司は言った。
呼んでから、続きが出てこなかった。
あかりが誠司を見た。待っている目だった。急かさない。ただ、待っている。
「今日、ここに来たのは」と誠司は始めた。
「特別な理由があるわけじゃない。ただ、会いたかった。それだけだ」
言ってしまった、と思った。
言ってはいけないことを、言ってしまった。
「また拓海が来たら」という言葉の陰に隠れていたものを、今日は隠せなかった。
会いたかった。それだけの言葉が、この夏の空気の中に、取り消せない形で存在した。
あかりはアイスティーのグラスを両手で持ったまま、下を向いた。
しばらく、何も言わなかった。
誠司は余計なことを言ったかと思いながら、待った。
あかりが顔を上げた。
「私も」と言った。
それだけだった。
私も。
その二文字が、喫茶店の薄暗い空気の中に、静かに溶けた。誠司は息を一つ吐いた。あかりも、少し肩の力が抜けたように見えた。
お互いの言葉を確認した。
それだけで、何かが変わった。変わってしまった。
話し始めると、止まらなかった。
最初は近況の話だった。仕事の話、子どもの話、多摩の街の話。でも話すうちに、少しずつ深いところへ入っていった。
誠司が商社に入った理由。あかりが今も工場の仕事が体に染みついていること。誠司の父親が去年、体を悪くしたこと。あかりの母が鹿児島で一人で暮らしていること。
誰にも話さないことを、話していた。
職場の同僚に話す内容でもない。里佳に話す内容でもない。なぜあかりには話せるのか、誠司にはわかっていた。あかりが同じ場所から来ているからだ。同じ海を見てきた人間だからだ。説明しなくてもわかることが、あかりとの間にはある。
「颯太くんとは、うまくいってるか」と誠司が聞いた。
あかりは少し間を置いた。
「難しい歳で。最近、私のことをあまり見なくなった」
「思春期か」
「そう。でも子どもって正直だから、私が何か変わったら、気づくと思う」
あかりが「何か変わったら」と言ったとき、二人の間に一瞬、緊張が走った。
あかりはすぐに話題を変えた。「花ちゃんは、どんな子?」
「よく笑う。母親に似て」
「里佳さん、明るい人なの?」
「穏やかな人だ。怒ったところを、ほとんど見たことがない」
誠司がそう言ったとき、あかりの表情が少し動いた。何かを考えるような、少し遠くなるような目をした。
誠司は気づいた。里佳の話をするべきではなかった、と思った。でも、するべきでない理由を考えると、その理由自体が、今日ここにいることの意味を照らし出した。
話題が変わった。また別の話になった。
二人とも、触れてはいけない場所の周囲を、慎重に歩いていた。
二時間が過ぎた。
気づいたのは、店員が「ラストオーダーはよろしいですか」と来たときだった。
誠司は時計を見た。夜の九時を過ぎていた。
「もうこんな時間か」とあかりが言った。驚いたような、少し困ったような顔をしていた。
「閉店まで気づかなかった」と誠司は言った。
「話しすぎた」
「そうだな」
でも二人とも、後悔していなかった。話しすぎたとは思っていなかった。ただ、時間が経つのが早すぎた。この時間が、もう少し続けばいいと思っていた。
二人でコーヒーのおかわりを頼んだ。
最後の一杯を飲みながら、誠司はあかりの顔を見た。
薄暗い照明の中で、あかりの顔は柔らかかった。多摩のスーパーでたまに見かけるあかりでも、ドラッグストアのエプロン姿のあかりでもない。今夜のあかりは、どこか十八歳のあかりに近かった。電車の中で窓の外を見ていた横顔に、近かった。
誠司は視線を逸らした。
見てはいけない、と思った。
見てはいけないものを、見ていた。
店を出ると、新宿の夜は明るかった。
昼とは別の明るさで、ネオンと人工の光が夜を昼のようにしていた。二人は並んで歩いた。どこへ行くとも決めずに、ただ歩いた。
「帰るか」と誠司が言った。
「うん」とあかりが言った。
でも足が止まらなかった。
二人とも、歩き続けた。
人混みの中を歩きながら、誠司はこの時間を終わらせたくないと思っていた。終わらせたくないという気持ちが、今夜だけは抑えられなかった。
「もう少し歩こうか」と誠司が言った。
「うん」とあかりはまた言った。
新宿御苑の方へ向かった。夜の公園は閉まっているが、外周の道は歩ける。街路樹が夜風に揺れていた。夏の夜の風は、昼の熱を少し残したまま、やわらかく流れていた。
二人で並んで歩きながら、さっきの喫茶店よりも言葉が少なくなった。
言葉が少ないのに、沈黙が苦しくなかった。
それが、誠司には怖かった。
沈黙が苦しくない相手というのは、限られている。里佳との沈黙は穏やかだが、どこか隙間がある。職場の同僚との沈黙は気まずい。拓海との沈黙は気楽だ。
あかりとの沈黙は、どれとも違った。
満ちている、という感じがした。言葉がないのに、何かで満ちている。二人が同じ空気を吸って、同じ夜風を受けて、同じ方向を向いて歩いている。それだけで、何かが完結しているような。
そういう感覚を、誠司は二十年前にも知っていた。
あかりと並んで歩くと、こうだった。言葉がなくても、歩いているだけで、何かが足りていた。
街路樹の下のベンチに、自然に座った。
誰かが決めたわけではなく、二人の足が同時に止まって、ベンチに向かった。そういう動きが、今夜は何度もあった。二人が同じタイミングで同じ方向へ動く。言葉で合わせているわけでなく、体が合っていた。
ベンチに並んで座った。
膝と膝の間に、三十センチほどの距離があった。
誠司はその三十センチを、意識していた。
意識してはいけない、と思いながら、意識していた。
あかりは正面を見ていた。街路樹の葉が夜風に揺れるのを、見ていた。その横顔が、街灯の光を受けていた。
「誠司くん」とあかりが言った。
「ん」
「今日、楽しかった」
シンプルな言葉だった。でもその言葉の中に、複雑なものが入っていることを、誠司はわかった。楽しかった、という言葉は、本当のことだ。でもそれだけではない。楽しかった、だから怖い。楽しかった、だから困る。そういう意味が、全部入っていた。
「俺もそう思った」と誠司は言った。
あかりが少し笑った。街灯の光の中で、笑った目が細くなった。
その笑顔を、誠司は正面から見た。
今夜初めて、逸らさずに見た。
見てはいけない、という声が、頭のどこかでまだしていた。でもその声は、夏の夜風の中で、だんだん小さくなっていった。
しばらくして、あかりが立ち上がった。
「帰らないと」と言った。
「そうだな」と誠司は言って、立ち上がった。
二人で駅の方へ歩き始めた。
歩きながら、誠司は今夜のことを整理しようとしていた。整理できなかった。今夜起きたことは、整理できるような種類のことではなかった。
改札の前で、二人は止まった。
あかりが何か言いかけた。
口が少し開いて、でも言葉が出てこなかった。あるいは、出てきたのに、戻したのかもしれない。
代わりに、一秒だけ誠司を見た。
その一秒に、全部があった。
誠司には、わかった。わかってしまった。
「ああ」と誠司は言った。
あかりが小さくうなずいた。それだけで、別れた。
帰りの京王線の中で、誠司は座れなかった。
立ったまま、窓の外を見ていた。夜の東京が流れていく。光の粒が、窓ガラスに映っては消えた。
今夜のことを、何と呼べばいいのか。
友人との食事。昔の知り合いとの再会。そういう言葉で今夜を括ろうとすると、何かが抵抗した。今夜はそういうものではなかった。少なくとも、誠司の中では。
あかりの中でも、そうではなかったと思う。
誠司を見たあかりの目が、まだ残っていた。
誠司は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
三十八歳の、嘘をついてここにいる男の顔。
同期と飯を食う、と里佳に言った。
今夜、里佳に帰ったら何と言うか。楽しかったか、と聞かれたら。どうだった、と聞かれたら。
楽しかった、と言う。それは本当のことだ。
本当のことを言いながら、全部を隠す。そういう嘘が、今夜から始まったのだと、誠司は知っていた。
電車が多摩川を渡った。
夜の川は、下から照らされて、暗く光っていた。誠司は川を見ながら、橋を渡りながら、今夜の自分が何かを越えたことを感じていた。
越えてはいけない何かを。
でも越えた。
越えてしまった、という感覚は、不思議と後悔ではなかった。後悔すべきだとわかっていた。でも胸の中にあったのは、後悔ではなく、もっと手に負えない何かだった。
電車が橋を渡り終えた。
川が、窓の外から消えた。
その夜遅く、あかりはバスルームで鏡を見ていた。
健一はもう寝ていた。颯太も部屋の電気が消えていた。家の中が静かだった。
あかりは鏡の中の自分の顔を見た。
今夜の顔だ、と思った。いつもの顔ではない。何かが表に出ている顔だ。目の奥に、昨日とは違う光がある。
まずい、と思った。
この顔を、健一に見られなかっただろうか。帰ってきたとき、健一はもうソファでうとうとしていた。「遅かったね」と言った。「うん、話し込んじゃって」と言った。健一はそれ以上聞かなかった。
よかった、と思う自分が、あかりは嫌だった。
夫に見られなくてよかった、と思っている。それがどういうことか、あかりにはわかっていた。
蛇口をひねって、冷たい水で顔を洗った。
鏡を見た。
顔は変わらなかった。
冷たい水で洗っても、今夜の光は消えなかった。
あかりはタオルで顔を拭きながら、今夜の喫茶店を思い出した。薄暗い照明。コーヒーの香り。向かいの誠司の顔。「会いたかった」という言葉。「私も」と答えた自分の声。
言ってしまった。
言ってしまってから、ずっと、胸の中でその言葉が生きている。「私も」。たった二文字が、今夜の自分の中で、何かを決定的に変えた。
あかりは電気を消して、バスルームを出た。
廊下は暗かった。
暗い廊下を、寝室に向かって歩きながら、あかりは今夜の自分に名前をつけた。
ずっとつけたくなかった名前を、今夜だけは、認めることにした。
好きだ。
二十年前から、ずっと、好きだった。
その名前をつけた瞬間、胸の中で何かが溢れた。痛くて、温かくて、どうしようもない何かが。
あかりは暗い廊下に立ったまま、少しの間、動けなかった。
寝室のドアの向こうから、健一の規則正しい寝息が聞こえていた。




