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あなたのいない場所で、愛している 永瀬誠司とあかりの物語   作者: かーすけ


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【夏】情熱——燃えてはいけない火 第五章「LINEと、手紙の重さ」

 六月に入ると、多摩川沿いの木々は深い緑になった。

 桜の薄さも、藤の甘さも消えて、夏の緑は重く、濃く、自己主張が強い。

 朝のランニングコースで誠司が見上げる木々は、五月とは全く違う顔をしていた。

 光を受けて輝くのではなく、光を吸い込んで蓄えているような、そういう色。

 梅雨に入る前の、束の間の晴れが続いていた。


 誠司は橋の上で立ち止まった。

 いつもの場所。いつもの多摩川。

 でも最近、ここに立つたびに、川の見え方が少しずつ変わっているような気がする。水の色が違う、というわけではない。流れの速さが変わった、というわけでもない。ただ、川を見ている自分の目が、変わっている。


 スマホを取り出した。

 ランニングの途中でスマホを見る習慣はなかった。でも今朝は、気づいたら手が動いていた。

 LINEを開く。

 あかりからの昨夜のメッセージが、まだそこにある。

『今日、颯太の弁当に入れたたこさんウインナーを、中学生になっても喜んで食べてた。成長してるんだか、してないんだか』

 それだけのメッセージだった。他愛ない、本当に他愛ない話。

 でも誠司はそれを、昨夜寝る前に三回読んだ。そして今朝、走りながらまた思い出していた。


 たこさんウインナー。あかりが息子のために早起きして弁当を作る。その朝の台所を、誠司は勝手に想像した。エプロン姿のあかり。まな板の音。窓から入る朝の光。

 想像してはいけない場面を、想像していた。

 誠司は返信を打った。

『うちの花も、キャラ弁じゃないと食べないとか言い出した。どこで覚えてくるんだろうな』

 送信した。

 橋の欄干に両手をかけて、川を見た。

 こんなやりとりが、いつから始まったのか。藤棚の日から、少しずつ始まっていた。

 最初は「また拓海が来たら」という言葉の陰に隠れていたが、今はもう、拓海の名前を使っていない。

 二人だけで、言葉を交わしている。

 それが何を意味するか、誠司にはわかっていた。

 わかっていて、やめられなかった。


 LINEというものを、誠司はどこか信用していない。

 正確には、信用していないのではなく、軽すぎると思っている。文字を打って、送信ボタンを押す。それだけで言葉が届く。相手がいつ読んだかがわかる。既読、という表示が出る。

 既読。

 その二文字が示すものの、あっけなさ。


 誠司が大学生だったころ、あかりへの言葉はそんなに簡単に届かなかった。

 便箋を出して、万年筆のキャップを外して、インクを確かめて、それから書き始める。最初の一行が決まるまでに、何分もかかることがあった。何を書くか、どう書くか。書いては止まり、止まっては書いた。誤字をすると万年筆では消せないから、最初から書き直すか、そのまま続けるかを判断しなければならなかった。書き直すことの方が多かった。

 完成した手紙を封筒に入れて、糊で封をして、宛名を書いて、切手を貼って、ポストに入れる。その一連の動作の中に、言葉への覚悟があった。一度ポストに入れたら、取り戻せない。訂正もできない。あかりが読むのは、三日後か四日後か。その数日間、誠司は自分が書いた言葉を、ポストの向こうに置いてきたまま、待った。待つことが、あの頃は当たり前だった。 

 返事が来るのは、早くて一週間後だった。封筒がポストに届いているのを見た瞬間の、あの気持ち。アパートの階段を駆け上がりながら、封を開けるのがもったいなくて、机の前に座ってからゆっくり開けた。あかりの字は、丸くて、やわらかかった。便箋いっぱいに書いてくることもあれば、三行だけのこともあった。三行のときは、その三行を何度も読んだ。


 今のLINEのやりとりは、一日に何往復もする。

 でも誠司には、あの一週間待った三行の方が、今の何往復よりずっと重かった気がする。重さというのは、情報量ではない。待った時間の分だけ、言葉は重くなる。受け取るまでの間に積み重なった想像の分だけ、重くなる。それを今のあかりに言ったら、どう思うだろう。


 あかりも、同じことを考えていた。

 六月の午前中、ドラッグストアのパートが終わって帰宅する電車の中で、あかりはスマホを見ていた。

 誠司からのメッセージ。キャラ弁の話。あかりは少し笑って、返信を打った。

『キャラ弁、一回作ったことある。ミッキーのつもりが、ただの黒い丸になった』

 送信して、窓の外を見た。梅雨前の空は白く、どこか曖昧な色をしていた。

 既読がついた。すぐに返信が来た。

『見たかった』

 たった四文字。

 あかりはその四文字を見て、胸の中で何かが動いた。

 見たかった。それだけの言葉が、なぜこんなに真っ直ぐに届くのか。

 考えて、気づいた。

 誠司の言葉は、昔からそうだった。

 余計なことを書かない。飾らない。思ったことを、思った形で書く。


 手紙がそうだった。

 遠距離恋愛を始めてから、誠司からの手紙は月に二回か三回来た。あかりはその頻度を、少ないと思ったこともあった。電話でそう伝えたとき、誠司は「手紙は時間がかかるから、ちゃんと書きたい」と言った。その言葉の意味を、あかりはあとになって理解した。誠司は量より密度を選んでいた。一通一通に、時間をかけて言葉を選んでいた。

 愛知の工場の寮の小さな部屋で、あかりは誠司からの手紙を読んだ。

 仕事が終わって、夕飯を食べて、お風呂に入って、それからベッドに横になって読む。それが習慣だった。封筒を開ける前に、差出人の欄の「永瀬誠司」という文字を確かめる。当たり前に確かめる。でも確かめないと、開けられなかった。

 誠司の字は、少し右上がりで、筆圧が強かった。万年筆のインクが紙に食い込んでいて、裏から触ると凹凸があった。あかりはよく、指の腹でその凹凸をなぞった。誠司がここを書いたとき、どんな顔をしていたか。どんな気持ちでいたか。その字の一本一本に、誠司の時間が宿っている気がした。

 今のLINEには、その凹凸がない。

 画面の上の文字は平らで、軽くて、どこまでも速い。

 速さの代わりに、何かが失われている。あかりはずっとそれが何かわからなかったが、今日の「見たかった」という四文字を見て、少しわかった気がした。

 失われたのは、待つ時間だ。

 待つ時間の中に、人は相手のことを想像する。

 どんな顔で読むだろう。どう思うだろう。笑ってくれるだろうか。その想像の時間が、言葉に重さを与えていた。

 電車が駅に着いた。

 あかりはスマホをバッグにしまって、立ち上がった。


 その週の金曜日の夜、誠司は書斎にいた。

 仕事の書類を片付けながら、ふと引き出しを開けた。

 手紙の束を取り出した。

 輪ゴムで束ねられた十数通の封筒。取り出したのは、いつぶりだろうか。五年か、もっとか。封筒は薄く変色していて、輪ゴムは劣化してぱちりと切れた。

 誠司は一番上の封筒を手に取った。

 消印は二十年前の秋だ。あかりが愛知に行って半年が過ぎたころ。封筒の表の、あかりの字。丸くて、やわらかい字。宛名の「永瀬誠司様」の「様」が、少し遠慮がちに小さく書いてある。そういう細かいところまで、覚えている。

 中身は読まなかった。

 読めなかった、というより、読む必要がなかった。内容は覚えている。工場の仕事の話、寮の生活の話、休日に一人で映画を見に行った話。そして最後の一段落に、必ず、誠司への言葉があった。

 どの手紙の最後の一段落も、誠司は今でも言える。

 封筒を束に戻して、机の上に置いた。


 スマホを手に取った。

 LINEを開いた。あかりとのトークを開いた。今日のやりとりが並んでいる。キャラ弁の話、昼に食べたものの話、夕方の天気の話。短い言葉が、次々と並んでいる。

 誠司は画面と、机の上の手紙の束を、交互に見た。

 同じ人間との、言葉のやりとり。

 でも、重さが違う。

 手紙は二十年前のもので、LINEは今日のものだ。二十年前の言葉の方が重いのは、時間のせいだけではない。あの頃の誠司とあかりが、言葉に全部を込めていたからだ。会えない時間を、距離を、不安を、全部、便箋一枚に込めていた。

 今の自分たちは、何を込めているのか。

 誠司はLINEのトーク画面を見つめた。

 今日の最後のメッセージは、あかりからだった。

『おやすみ』

 それだけだった。

 誠司は少し考えて、返信を打った。

『おやすみ』

 送信した。

 画面に既読がついた。

 それだけだった。それだけなのに、誠司はしばらくスマホを置けなかった。


 翌朝、あかりはいつもより早く目が覚めた。

 まだ五時前だった。健一も颯太も眠っている。家の中が、しんとしていた。

 あかりは静かに起き上がって、押入れを開けた。

 奥の方に、段ボール箱がある。引っ越しのたびに運んできた箱で、中身をほとんど入れ替えないまま、ここまで来た。

 箱を引き出して、蓋を開けた。

 高校の卒業アルバム。愛知時代の写真。そして、一番下に、封筒の束。

 誠司からの手紙。

 あかりは束を取り出した。自分の手紙と同じように、輪ゴムで束ねてある。こちらの輪ゴムはまだ生きていた。一通ずつ、差出人の欄を確かめた。「永瀬誠司」。「永瀬誠司」。「永瀬誠司」。

 十七通あった。


 一番最初の手紙は、高校三年生の春に届いたものだ。愛知に行く前、まだ薩摩川内にいたころ。差出人は同じ町なのに、わざわざ郵便で送ってきた。封筒を開けたら、原稿用紙が三枚入っていた。

 あかりはその一通を取り出して、開いた。

 二十年ぶりに読む、誠司の最初の手紙。

 万年筆の、濃いインクで書かれた文字。右上がりの、筆圧の強い字。最初の一行は、「突然こんな手紙

 を送ってすみません」から始まっていた。

 あかりは読みながら、少し笑った。

「突然こんな手紙を送ってすみません」。

 今の誠司には、絶対に書けない書き出しだ。でも十七歳の誠司は、これを書いた。謝ることから始める、その不器用な誠実さが、当時のあかりの心を動かした。


 手紙は続く。電車で何度も見かけたこと。話しかけたかったけれど、できなかったこと。この気持ちを伝えないまま卒業するのが、どうしても嫌だったこと。

 最後の一行は、こうだった。

「もし迷惑でなければ、返事をもらえると嬉しいです。もし迷惑なら、この手紙のことは忘れてください。それでも、書いてよかったと思っています」

 あかりは手紙を膝の上に置いた。

 それでも、書いてよかったと思っています。

 この一行を読んで、あかりは返事を書いた。あの頃の自分が、なぜ返事を書いたか、今でもわかる。この一行が、あかりに選択の余地を与えたからだ。迷惑なら忘れていい。でも書いてよかった、と言い切る。押しつけずに、でも確かにそこにある気持ち。

 あかりは手紙を束に戻して、段ボール箱に収めた。

 蓋を閉めて、押入れに戻した。


 台所へ行って、お湯を沸かした。

 窓の外が少しずつ明るくなっていた。六月の夜明けは早い。光が白く、やわらかく、台所の床に伸びてきた。

 あかりは緑茶を一杯淹れて、窓の外を見た。

 誠司は今、何をしているだろう。

 たぶん、ランニングに出かけているか、出かける前だろう。多摩川沿いを走って、橋の上で立ち止まる。あかりはまだその習慣を誠司から聞いたことはないが、誠司がそういうことをしそうな人だと、なんとなく思っていた。

 昔からそうだった。誠司のことを、聞かなくてもわかる気がした。

 それが錯覚かもしれないとも、思っていた。人間は二十年で変わる。自分だって変わった。でも変わらないものも、ある。

 お茶を一口飲んだ。

 温かかった。


 その日の午後、誠司からLINEが来た。

『聞いてもいいか』

 あかりはドラッグストアの休憩室でスマホを見ていた。

『なに?』と返した。

 少し間があった。誠司が何かを打って、消して、また打っているような間だった。

 返信が来た。

『手紙、まだ持ってるか』

 あかりは画面を見つめた。

 持ってる、と打てば、誠司は何と返すだろう。持っていない、と打てば、それはそれで一つの嘘になる。

 あかりは少し考えてから、打った。

『持ってる。今朝、久しぶりに出した』

 送信した。

 今度は、すぐに既読がついた。

 返信まで、少し時間がかかった。

『俺も持ってる。昨夜、出した』

 あかりは画面を見つめた。

 昨夜と今朝、二人はそれぞれ、同じことをしていた。二十年間引き出しと押入れに眠らせていた手紙を、同じ夜に取り出していた。

 偶然とは言えない何かが、そこにあった。

 でもそれを偶然と呼ばないためには、言葉が必要だ。その言葉を、今の自分たちは持っていい立場にない。

 あかりは返信を打った。

『なんでだろうね』

 すぐに返信が来た。

『わからない』

 それだけだった。

 わからない、という言葉の誠実さに、あかりは胸が痛くなった。誠司はわかっているはずだ。あかりだってわかっている。それでも「わからない」と言う。わかってしまったら、次の一歩を踏み出さなければならないから。

 休憩時間が終わる音がした。

 あかりはスマホをポケットにしまって、立ち上がった。

 エプロンの紐を結び直しながら、胸の中で何かが静かに、しかし確実に大きくなっていくのを感じていた。

 名前のついていない何かが、そろそろ、名前を欲しがっていた。


 六月の終わり、梅雨の雨が続く週があった。

 誠司は朝のランニングに行けない日が続いた。窓から雨の多摩川を見ながら、コーヒーを飲んでいた。川が増水して、茶色くなっていた。

 LINEを開いた。

 あかりとのやりとりを、上まで遡った。最初のメッセージは「昨夜はありがとう。久しぶりだったな」から始まっていた。それから二ヶ月。メッセージの数は、数えるのが面倒なくらい増えていた。

 誠司はトークを閉じた。


 雨の音を聞きながら、二十年前のことを考えていた。

 遠距離恋愛をしていたころ、誠司は一つの習慣があった。あかりへの手紙を書き終えた後、封をする前に、もう一度だけ読み返す。誤字がないか確かめるためだけでなく、これを送っていいかどうかを、最後に確認するために。

 言いすぎていないか。伝わるか。重すぎないか。軽すぎないか。

 そういう確認を、毎回していた。

 今の自分は、LINEを送る前に確認することが少なくなった。打って、送信して、それだけ。速さが慎重さを追い越していく。

 それでも誠司は、あかりへのメッセージだけは、送信前に一度読み返す癖がついていた。

 気づいたのは、最近だ。

 無意識のうちに、あかりへの言葉だけ、昔の手紙のように扱っていた。

 誠司はコーヒーを一口飲んだ。

 冷めていた。

 窓の外で、雨が続いていた。多摩川はまだ茶色く、増水したまま流れていた。上流からいろいろなものを運んできて、下流へ流していく。

 誠司は窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 三十八歳の顔。雨の日の、少し疲れた顔。

 この顔で、あかりへの手紙を書いていたころの自分を、時々、遠い人のように感じる。でも今夜、引き出しから手紙を出したとき、あの頃の自分は遠くなかった。すぐそこにいた。

 引き出しの中に、まだいた。


 七月に入る少し前の夜、誠司はLINEに長めのメッセージを打った。

 珍しいことだった。誠司のメッセージはいつも短い。

 打ち終えて、送信前に一度読み返した。

 長すぎるかもしれない。でも、言いたかった。

 送信した。

『昔、手紙を書くのに時間がかかっていた。一通書くのに、下書きを二回か三回やり直した。封をしてポストに入れてから、言い足りなかったことを思い出して、次の手紙が来るまでずっとその言い足りなさを抱えていた。今は同じ言葉を一秒で送れる。便利だと思う。でも、あの言い足りなさの時間に、俺はお前のことを一番よく考えていた気がする』

 送信して、しばらく画面を見ていた。

 既読がついた。

 返信まで、時間がかかった。

 誠司は待った。

 待つことが、久しぶりに、懐かしかった。

 返信が来た。


『私も同じだった。手紙の返事を書くとき、何日も考えた。考えながら、誠司くんのことを考えていた。今のLINEで、私がこんなに時間をかけて返信してるの、気づいてた?』

 誠司は思わず、少し笑った。

 気づいていた。あかりの返信はいつも、少し時間がかかる。早い返信の日も、遅い返信の日も、あかりは必ず一度、考えてから打っている。それが、文章の手触りでわかった。

 誠司は返信を打った。

『気づいてた』

 すぐに既読がついた。

 返信は来なかった。

 しばらく待っても、来なかった。

 でも誠司には、あかりが今、スマホを持ったまま、返信を打てないでいることが、なんとなくわかった。


 打てない言葉が、画面の向こうにある。

 それが何なのかも、わかる気がした。

 わかるから、誠司も何も送らなかった。

 二人は、返信のないまま、しばらく同じ夜の中にいた。

 多摩川は今夜も流れていた。

 梅雨の雨を含んで、少し増えた水を、下流へ、下流へと運びながら。

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