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あなたのいない場所で、愛している 永瀬誠司とあかりの物語   作者: かーすけ


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【春】芽吹き 第四章「万年筆とキーホルダー」

 翌日の朝、誠司は目が覚めると天井を見ていた。いつもと同じ天井だった。白い、何の変哲もない天井。

 ランニングに行こうと思ったが、体が動かなかった。

 布団の中で、昨夜の多摩川の景色を思い出していた。

 桜の重みで垂れた枝。川面に揺れる灯り。そして、あの横顔。


 起き上がれないのは、疲れているからではない。誠司はそれをわかっていたから、余計に起き上がれなかった。

 隣で里佳がまだ眠っていた。規則正しい寝息。誠司は里佳を起こさないようにそっと布団を出て、書斎へ向かった。

 引き出しを開けた。万年筆の隣に、やはりあった。

 キーホルダーの片割れ。

 誠司は手に取った。軽い。こんなに軽いものを、二十年間持っていた。正確には、忘れていた。引き出しの奥に眠らせたまま、開けるたびに見て、見なかったことにして、閉めてきた。

 昨夜、あかりのバッグから出てきたものと、これは対になるはずだ。

 対になる、はずだ。

 でも今は、それぞれ別の場所にある。別の引き出しに、別のバッグに。

 二十年間、別々に眠っていた。それが昨夜、一瞬だけ、同じ夜の空気の中に存在した。

 誠司はキーホルダーを引き出しに戻して、閉めた。

 窓の外で、鳥が鳴いた。春の鳥の声は、どこか急いでいる。


 同じ朝、あかりは台所に立っていた。颯太の弁当を作る土曜日だった。今日は部活があると言っていた。

 あかりは卵を割りながら、昨夜のことを考えないようにしていた。

 考えないようにしているということは、考えているということだ。

 永瀬誠司。

 二十年ぶりに見た顔は、予想よりずっと「誠司のまま」だった。

 老けていないという意味ではない。ちゃんと三十八歳の顔になっていた。

 でもその目の奥の、静かで、どこか遠くを見ているような光が、高校時代と同じだった。

 あの電車の中で横顔を見ていたときから、ずっと同じ光を持っている人だった。


 卵が焦げそうになって、あかりはフライパンを揺すった。

 昨夜、バッグからキーホルダーが出てきた瞬間のことを思い出す。あかりの手が、今でも覚えている。あの感触。誠司の足音が一歩遅れた気配。視線が交わった一秒。

 誠司はあれを、見た。

 確かに見た。そしてあかりは、素早くしまった。誠司は「なんでもない」と言って、それ以上聞かなかった。

 その「なんでもない」が、昨夜からずっと耳の中に残っている。


 颯太が「おはよう」と眠そうな顔でキッチンに入ってきた。

「弁当、もうすぐできるよ」

「うん」と颯太は答えて、冷蔵庫を開けた。

 あかりは颯太の背中を見ながら、弁当箱に卵焼きを詰めた。今日の卵焼きは、少し焦げている。颯太は気づかないだろう。気づいても言わないだろう。十三歳の息子は最近、母親のことをあまり見ない。それが思春期というものだとわかっていても、時々寂しい。

 健一はもう仕事に出ていた。

 土曜日も関係ない週があるのが、銀行員というものだと健一はよく言う。あかりはそれに慣れている。慣れていることと、寂しくないこととは、違う。でもその違いを言葉にしたことは、一度もない。


 四月の第二土曜日の午後、あかりは一人でいた。

 颯太は部活、健一は仕事。夕方まで誰も帰ってこない。こういう時間は月に何度かある。あかりはたいていその時間を、溜まった家事か、録画したドラマを見るかで過ごす。

 今日は、どちらもする気になれなかった。

 ソファに座って、窓の外を見ていた。聖蹟桜ヶ丘の空は、薄く雲がかかって、柔らかい光が落ちていた。桜はまだ散っていない。今年の桜は長い。

 スマホを手に取った。

 LINEを開いた。

 拓海とのグループトークがある。昨夜の夕食の後、三人でグループを作った。拓海が「また集まろうな」と送ってきて、あかりが「うん」と返して、誠司が「ああ」と返した。それだけで、そのあとは誰も何も送っていない。

 あかりはグループトークを閉じた。

 そして、気づいた。

 グループとは別に、個人のトークがある。昨夜、拓海が「これ、誠司の連絡先な」と言って、その場で誠司のLINEをあかりに送ってきた。あかりは「ありがとう」と受け取ったが、まだ何も送っていない。

 誠司のアイコンは、風景写真だった。川の写真。多摩川かもしれない、と思った。

 あかりはスマホを置いた。

 それから、また手に取った。

 それから、また置いた。

 窓の外で、風が吹いて桜が揺れた。花びらがいくつか舞って、見えなくなった。


 スマホが鳴ったのは、その三十分後だった。

 あかりは反射的に画面を見た。

 誠司からだった。

 短いメッセージが一行。

『昨夜はありがとう。久しぶりだったな』

 それだけだった。

 あかりは画面を見つめた。既読にしてしまった。既読にしたということは、見たということで、見たということは、返さなければいけない。でも何を返せばいいか。

 昨夜はありがとう。久しぶりだったな。

 その言葉の、どこをどう読めばいいのか。

「久しぶりだったな」は事実の確認だ。でも誠司がそれをわざわざ送ってきたのは、何かを確認したいからではないか。昨夜の桜並木でのあの一瞬を、なかったことにしたいのか。あるいは、なかったことにしたくないのか。

 あかりは自分が考えすぎていることを知っていた。

 知っていて、考えることをやめられなかった。

 最終的に、シンプルに返すことにした。

『こちらこそ。久しぶりに鹿児島の話ができて、楽しかった』

 送信した。

 すぐに既読がついた。

 しばらく間があって、返信が来た。

『俺もそう思った。また拓海が来たら集まろう』

 また拓海が来たら。

 その「また拓海が来たら」という言葉の中に、誠司が何かをしまい込んだ気がした。

 直接「また会おう」とは言わずに、拓海という緩衝材を置いた。あかりも同じことをしていたから、わかった。

『うん、そうしよう』

 あかりは返信して、スマホを置いた。

 胸の中に、小さな熱があった。

 その熱を、あかりはまだ、何と呼ぶべきかわからないでいた。


 その夜の食卓で、健一が珍しく早く帰ってきた。

「昨日、どこか行ってたのか」と健一が言った。

「友達と。拓海くん、覚えてる? 鹿児島の幼馴染。東京出張があったって」

「ああ」と健一は言った。それ以上聞かなかった。


 健一は悪い夫ではない。あかりはいつも、そこに戻ってくる。悪い人ではない。仕事に誠実で、息子に優しく、義両親の面倒もよく見る。あかりに怒鳴ったことも、手を上げたことも、一度もない。

 ただ、この人はあかりを見ていない。

 見ていないというのは、嫌いとか興味がないとか、そういうことではない。見慣れているのだ。十五年間、同じ場所にいるものとして、見慣れている。あかりがどんな顔をしているか、今日どんな気持ちだったか、何を考えているか。聞かない。聞かなくても大丈夫だと思っている。

 それがわかるから、あかりも言わない。


  夕飯の間、三人で話した。颯太の部活の話、健一の職場の話。あかりは相槌を打ちながら、昨夜の多摩川の桜を思い出していた。

 夜の桜の下で、誠司と並んで歩いた。歩幅が合った。

 あかりは箸を置いた。

「どうした」と健一が言った。

「なんでもない」とあかりは言った。

 なんでもない。

 昨夜、誠司も同じ言葉を使った。二人して、同じ言葉でものごとをしまい込んだ。


 五月の連休が過ぎたころ、二人はまた会った。

 きっかけは些細なことだった。

 あかりが拓海とのグループトークに「近くの桜、もう散ったね」と送ったら、誠司が「こっちもそうだ」と返した。拓海は既読にならなかった。農繁期で忙しいのかもしれなかった。

 誠司から個人トークにメッセージが来たのは、その翌日だった。

『多摩川沿い、今ちょうど藤が咲いてる。知ってたか』

 唐突な話題だった。あかりは少し笑った。誠司らしい、と思った。昔もそうだった。手紙の書き出しが、いつも唐突だった。「昨日、変な夢を見た」とか「今日、コンビニで鹿児島弁の人に会った」とか。前置きなしに、思ったことをそのまま書いてきた。

『知らなかった。桜の次は藤なんだね』

『見に行くか』

 あかりは画面を見つめた。

 見に行くか、と誠司は書いた。拓海の名前は、そこにない。

 あかりの中で、何かが静かに傾いた。傾いてはいけない方向へ、ゆっくりと。

 返信を打つ前に、一度スマホを置いた。

 窓の外を見た。五月の空は高く、光が透明だった。

 この光の下で、誠司と並んで歩いたら、どんな気持ちになるだろう。

 考えてはいけないことを、考えていた。


 多摩川沿いの藤棚は、河川敷の端にひっそりとあった。

 平日の午後、人は少なかった。あかりはドラッグストアのパートが休みの日を選んだ。誠司は在宅勤務の日を選んだ。二人とも、特に示し合わせたわけではないのに、人の少ない時間を選んでいた。

 待ち合わせの場所は聖蹟桜ヶ丘の駅だった。

 誠司が先に来ていた。改札の前で、スマホを見ていた。誠司はあかりが近づいてくるのに気づいて、スマホをしまった。

「待った?」とあかりは聞いた。

「いや」と誠司は言った。

 二人で並んで、川の方へ歩き始めた。

 最初は、会話が少なかった。

 三人でいるときと違う。拓海がいない。拓海という緩衝材がない。二人の間に、直接、空気があった。その空気を、どう扱えばいいかを、二人ともまだ知らなかった。


  藤棚が見えてきた。

 薄紫の花が、棚からたっぷりと垂れ下がっていた。甘い匂いが漂っている。あかりは立ち止まって、上を見上げた。藤の花の向こうに、五月の青空が透けていた。

「きれい」とあかりは言った。

「ああ」と誠司は言った。

 あかりは藤を見ながら、誠司が隣に立っていることを感じていた。半歩の距離。肩が触れない距離。その半歩が、今は途方もなく狭く感じた。

「あのとき」と誠司が言った。

 あかりは藤から目を離して、誠司を見た。

「あのとき、持ってたよな。キーホルダー」

 あかりは一拍、間を置いた。

「うん」

「俺も持ってる」

 それだけだった。

 誠司はそれ以上言わなかった。あかりも何も言わなかった。二人とも、続きを知っていながら、続けなかった。


  藤の花が、風に揺れた。甘い匂いがまた流れてきた。

 あかりは藤を見上げながら、胸の中の熱が、名前のある何かになろうとしているのを感じた。まだ名前をつけたくなかった。名前をつけた瞬間に、それは本物になる。本物になったら、目を逸らせなくなる。

 だから、まだ。

 まだ、名前をつけないでいた。


 帰り道、二人は川沿いをゆっくり歩いた。

 話しながら歩いた。鹿児島の話、子どもの話、仕事の話。深くない話。でも誠司と話す言葉は、職場の同僚とも、里佳とも違う手触りがあった。同じ土地を知っている人間同士の言葉。同じ海を見てきた人間同士の言葉。

「藺牟田池、覚えてるか」と誠司が言った。

 あかりは少し笑った。

「覚えてる。秋に行ったよね」

「紅葉がきれいだった」

「うん」

「また行けるといいな」とあかりは言った。

 言ってから、少し後悔した。「また行けるといいな」は、二人で、という意味だ。二人でまた鹿児島へ行って、藺牟田池の紅葉を見られるといいな、という意味だ。

 そんなことが、できるはずがない。できるはずがないのに、口から出ていた。

 誠司は何も言わなかった。

 あかりは誠司の横顔を、ちらりと見た。誠司は川を見ていた。その横顔が、電車の中で見ていた横顔と重なった。十七歳の誠司と、三十八歳の誠司が、一瞬だけ重なった。

 駅まで戻ったところで、二人は立ち止まった。

「じゃあ」とあかりは言った。

「ああ」と誠司は言った。

 それだけで、二人はそれぞれの家の方向へ歩き始めた。

 あかりは歩きながら、振り返らなかった。

 振り返ったら、戻れない気がした。


 その夜、誠司は書斎の机に向かっていた。

 仕事の書類を広げていたが、目は字を追っていなかった。今日の藤棚を思い出していた。薄紫の花。甘い匂い。あかりが上を見上げたときの横顔。

「俺も持ってる」と言ったのは、なぜだったのか。

 言うつもりはなかった。でも口から出た。キーホルダーのことを、誰かに言ったのは初めてだった。里佳には言ったことがない。誰にも言ったことがない。それを今日、あかりに言った。

 言って、どうするつもりだったのか。

 どうもするつもりはなかった。ただ、知っていてほしかった。二十年間、捨てられなかった。今でも持っている。それだけを、知っていてほしかった。

 誠司は引き出しを開けた。

 万年筆。手紙の束。そしてキーホルダーの片割れ。

 三つを並べて見た。

 どれも、捨てられないものだ。捨てられないまま、引き出しの中で眠っていたものだ。誰にも見せず、見なかったことにして、しかし捨てられなかったもの。

 誠司は万年筆を手に取った。

 インクを補充してみようか、と思った。

 思ったが、やめた。

 今はまだ、その時ではない気がした。このペンにインクを入れるのは、もっと別の何かが決まってからだ。何が決まるのかは、わからない。でもまだではない。

 引き出しを閉めて、書類に戻った。

 窓の外で、夜の多摩川の方角に、街灯が一つ光っていた。


 同じ夜、あかりは布団の中にいた。

 眠れなかった。

 天井を見ながら、今日の川沿いを思い出していた。藤の花。誠司の横顔。「俺も持ってる」という言葉。

 あかりは目を閉じた。

 瞼の裏に、今日の誠司の顔が浮かんだ。そしてその顔が、ゆっくりと十七歳の誠司の顔に変わっていった。電車の中で、窓の外を見ていた横顔。ラブレターを差し出した震える手。

 あかりは布団の中で、静かに息を吐いた。

 隣の部屋から、健一の寝息が聞こえていた。規則正しい、深い寝息。この人はいつも、頭が枕に触れると五分で眠る。それを十五年間、見てきた。

 あかりは目を開けた。

 天井を見た。

 化粧ポーチは洗面台の棚にある。その中に、キーホルダーの片割れが眠っている。誠司も、同じものを持っている。対になるものを、二十年間別々に持ち続けてきた。

 それが何を意味するのか、あかりにはわかっていた。

 わかっていたから、考えないようにしてきた。

 でも今夜は、考えないようにすることに、疲れた。

 あかりは布団の中で、膝を少し引き寄せた。

 窓の外で、風が鳴っていた。五月の夜の風は、まだ少し冷たくて、どこか遠くから来るような音がした。

 鹿児島の海の音に、少し似ていた。

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