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あなたのいない場所で、愛している 永瀬誠司とあかりの物語   作者: かーすけ


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【春】芽吹き 第三章「桜、多摩川」

 四月の最初の土曜日、聖蹟桜ヶ丘の桜は満開だった。

 多摩川沿いの遊歩道は、昼過ぎから花見客で賑わっていた。

 ブルーシートを広げた家族連れ、缶ビールを片手に歩くグループ、犬を連れた老夫婦。桜の木の下を、色とりどりの人々が行き交っていた。花びらが風に乗って川の方へ流れていく。橙色に染まりかけた夕空の下で、その花びらは光を受けてちらちらと輝いた。


 永瀬誠司は、駅前のロータリーに立って、スマホの画面を確認した。

 拓海からのメッセージには、駅から徒歩三分の居酒屋の名前が書いてあった。

「先に入って待っとるわ」と。誠司は画面を閉じて、あたりを見回した。

 土曜の夕方の駅前は、人が多い。買い物帰りの主婦、部活帰りらしい中学生のグループ、ベビーカーを押す若い夫婦。誠司は人の流れを避けながら、拓海の指定した店の方向へ歩き始めた。

 桜並木の端を通り抜けるとき、花びらが一枚、誠司の肩に落ちた。

 誠司は立ち止まって、それを指でつまんだ。薄いピンク色の、小さな花びら。こんなに小さかったか、と思った。毎年見ているのに、桜の花びらの小ささを忘れる。一枚では何でもない。でも集まると、木全体が白く燃えているように見える。

 花びらを風に戻してやって、また歩き始めた。


 店は、川沿いの通りから一本入った細い路地にあった。

 引き戸を開けると、木の匂いと出汁の匂いが混じった温かい空気が出迎えた。カウンター席とテーブル席が数卓の、こぢんまりとした店だ。

 奥のテーブルに、黒木拓海がいた。

 二十年ぶりに見る拓海は、高校時代よりも顔が四角くなって、日焼けが深くなっていた。

 農業を続けているせいだろう。それ以外は、驚くほど変わっていない。同じ丸い目、同じ人懐っこい笑顔。誠司を見つけると、大げさに手を振った。

「よお、誠司。変わらんな」

「お前こそ」と誠司は言いながら、向かいの席に座った。「もう一人は?」

 拓海が少し間を置いた。

「もうすぐ来る」

 その言い方が、わずかに引っかかった。「もうすぐ」という言葉の前の、ほんの一呼吸の間。誠司は何も言わずにビールを注文した。

 拓海と他愛のない話をした。鹿児島の話、農業の話、共通の知人の近況。

 誠司は相槌を打ちながら、店の入り口が気になっていることに気づいた。気になっている理由を、考えないようにしていた。

 引き戸が開いた音がした。

 誠司は反射的に振り返らなかった。

 拓海が「おう、来た来た」と声を上げた。誠司はゆっくりと、席ごと振り返った。


 入り口に、女性が立っていた。

 紺色のカーディガン。肩で切りそろえた黒髪。少し戸惑ったような顔で店の中を見回していて、拓海を見つけると安堵したように目を細めた。

 次に、誠司を見た。

 その瞬間、女性の表情が止まった。

 誠司も、止まった。

 時間が、ほんの数秒だけ、止まった。

 坂元あかり——いや、今は違う名前のはずだ。

 でも誠司の中では、彼女はまだ坂元あかりだった。

 二十年前のあかりとは違う。髪型も、立ち方も、顔の輪郭のやわらかさも。

 でも確かに、坂元あかりだった。

 電車の中で何百回と見た横顔が、今、三メートル先に立っている。

「あかり、こっちこっち」と拓海が手を振った。

 あかりが動いた。

 誠司も動いた。席から立ち上がって、どちらからともなく一歩か二歩、互いの方へ近づいた。

「久しぶり」とあかりが言った。

 声が、二十年前と同じだった。少しだけ低くなったかもしれない。でも根っこの音色が、同じだった。

「久しぶり」と誠司は言った。

 それだけだった。それだけで、二十年分の時間が、この小さな居酒屋の空気の中に溶けた。


 拓海が場を取り仕切った。

 飲み物を注文して、料理を選んで、鹿児島の話から始めた。

 誠司とあかりが正面から向き合うには、拓海の賑やかさがちょうどいい緩衝材だった。

「お前ら、まさか同じ多摩市におるとは思わんかったわ。世間は狭いな」

「本当に」とあかりが言った。

「私が越してきたのは七年前で、聖蹟桜ヶ丘の近くなの。誠司くんは?」

 誠司くん。

 その呼び方に、誠司は一瞬だけ固まった。高校時代、あかりは誠司のことをそう呼んだ。誠司くん。二十年ぶりに聞いたその呼び方は、妙に自然で、妙に胸に刺さった。

「俺も聖蹟桜ヶ丘の近くだ。歩いて十分くらいのところ」

「じゃあ、ずっと近くにいたんだね」

 あかりが言って、すぐに視線をテーブルに落とした。

 ずっと近くにいた。その言葉が、居酒屋の空気の中にしばらく漂った。拓海が「縁があるな」と笑った。その笑いが少しだけ、計算されたものに聞こえた。誠司は拓海の顔を一瞬見たが、拓海はもう別の話をしていた。


 話が進むにつれて、ぎこちなさが少しずつほどけていった。

 鹿児島の話になると、二人とも自然に方言が出た。

 薩摩川内の訛り。東京に二十年いても、完全には抜けないその音。

 誠司が「あの道、まだあっとかな」と言うと、あかりが「あっとよ、たぶん」と笑った。

 拓海が「お前ら、薩摩川内弁、まだ抜けとらんやろ」と言った。

 三人で笑った。

 笑いながら、誠司はこの感覚を懐かしいと思った。

 東京では、こういう笑い方をしない。職場での笑いとも、里佳との笑いとも、違う。腹の底から自然に出てくる、余計な力が入っていない笑い。鹿児島の友人といるときだけ出てくる、自分の中の柔らかい部分。

 あかりも同じかもしれない、と誠司は思った。

 あかりは今夜、最初よりずっと表情が柔らかくなっていた。乾杯のときは少し硬かった顔が、今は目が細くなって笑っている。その笑い方が、二十年前のあかりと重なった。

 重ねてはいけない、と思いながら、重ねていた。


 二時間ほどが過ぎた。

 店を出ると、夜の空気は少し冷たかった。

 三月の終わりと違って、四月の夜は花の匂いがする。

 桜の匂いというより、夜の湿気に桜が混じった匂い。

 自然な流れで、三人は多摩川の方へ歩いた。

 川沿いの遊歩道には、まだ花見の名残でちらほらと人がいた。

 桜の木の下にランタンをともしているグループがいて、その光が花びらを下から照らしていた。夜の桜は昼と違う表情を持っている。昼は華やかで、夜は静かで、どこか寂しい。


 拓海が前を歩いて、誠司とあかりが並んだ。

 並んで歩くのは、二十年ぶりだった。

 歩幅が合う、と誠司は思った。昔からそうだった。

 あかりと並んで歩くと、不思議と歩幅が合った。

 速くもなく遅くもなく、同じリズムで地面を踏む。

 今も同じだった。二十年の時間が、この歩幅の記憶だけは変えなかった。


「子どもは?」と誠司が聞いた。

「息子が一人。中一」

「うちは娘。小四」

「そっか」とあかりが言った。しばらく間があった。「旦那さんは?」

「商社勤め。課長補佐」

「私の夫は銀行員」


 互いの家庭を、静かに確認し合った。踏み込まずに、でも確認した。今の自分たちの立場を、ちゃんと知っておくために。

 拓海が立ち止まって振り返った。「この辺で休もうか」と川沿いのベンチを指した。

 三人で座った。川が暗く光っていた。対岸の灯りが水面に揺れていた。


 しばらく、誰も喋らなかった。

 悪い沈黙ではなかった。鹿児島の田舎で育った人間同士の、言葉を急がない静けさだった。川の音だけが続いていた。

 拓海がやがて「今日、声かけてよかった」と言った。感慨深そうな声だった。

「久しぶりすぎて、最初は緊張したよ」とあかりが言った。

「誠司は?」と拓海が聞いた。

 誠司は少し考えた。

「緊張したよ」と正直に言った。「でも、来てよかった」

 あかりがそれを聞いて、川の方を向いた。横顔が、川の光を受けていた。

 誠司はその横顔を、一秒だけ見た。

 一秒だけで、やめた。


 帰り際、三人で駅の方へ戻った。

 桜並木の下を歩きながら、あかりがバッグの中を探った。鍵を取り出そうとしているようだった。バッグの中をまさぐりながら歩いていて、何かが手に引っかかったのか、取り出した手の中に、鍵と一緒に小さなものが出てきた。

 金属の、小さな破片のようなもの。

 あかりは一瞬、それを見た。そして誠司も、見た。

 誠司の足が、一歩だけ遅れた。

 あかりが素早くそれをバッグの中に戻した。でもその一秒か二秒の間に、誠司はそれが何かを理解していた。

 キーホルダーの片割れ。

 安物の、色が剥げた、小さな金属片。自分が持っているものと、対になるはずのもの。


「あかり」と誠司は呼んだ。自分でも気づかないうちに、呼んでいた。

 あかりが振り返った。

「なんでもない」と誠司は言った。

 あかりは一秒だけ誠司の顔を見て、それから前を向いた。

 拓海は少し先を歩いていて、振り返らなかった。でも誠司には、拓海が振り返らないのが意図的な気がした。

 三人は駅のロータリーで別れた。拓海が「また鹿児島の話でもしよう」と笑った。あかりが「うん、また」と言った。誠司は「気をつけて」と言った。

 それだけで、別れた。


 帰り道、誠司は一人で多摩川沿いを歩いた。

 遠回りだとわかっていたが、まっすぐ家へ帰れなかった。

 川沿いの桜はもう暗くなっていて、昼間の華やかさはなかった。それでも木の輪郭が空に浮かんでいて、花の重みで枝が少し垂れていた。

 二十年。

 本当に二十年が経っていた。誠司の知っているあかりは十八歳で、今のあかりは三十八歳だった。二十年分の何かが、彼女の顔に積み重なっていた。それが悲しいというのではない。ただ、二十年という時間の重さを、今夜初めて体で感じた気がした。

 キーホルダーの片割れを、まだ持っていた。

 自分の持っている方は、どこにあるか、もう覚えていない。どこかにあるはずだ。

 いや——引き出しの奥に、万年筆と手紙の束と一緒に、眠っているかもしれない。

 橋の上で立ち止まった。

 毎朝立ち止まる場所。川を見下ろす。夜の川は昼よりも深い色をしていて、対岸の灯りを映して揺れていた。

 あかりが、同じ町にいる。

 それだけのことだ。それだけのことで、今夜の多摩川が、いつもと違う川に見える。水の流れは変わらない。下流へ向かう速さも変わらない。それでも、同じ川ではない気がする。


 スマホが鳴った。

 里佳からのメッセージだった。「夕飯、残してあるよ」と。

 誠司は画面を見つめた。

 一呼吸おいて、「ありがとう、もうすぐ帰る」と打った。

 橋の欄干から手を離して、歩き始めた。家の方へ。里佳と花のいる家の方へ。

 背中に、桜の匂いがついてきた。

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