【春】芽吹き 第二章「川沿いの男」
多摩川は、夜明け前が一番静かだ。
午前五時半。
三月の終わりの空はまだ暗く、川沿いの遊歩道には誠司の足音だけが響いていた。
息が白い。この時期の朝の空気は冬の名残を引きずっていて、走り始めてしばらくは肺の奥が冷たい。それでも誠司は、週に四日、この時間に家を出る。目覚ましが鳴る前に目が覚めて、暗い天井を見つめて、起き上がる。そうしないと、一日が始まらない気がするのだ。
聖蹟桜ヶ丘の橋が見えてきた。
誠司はいつも、この橋の上で一度立ち止まる。欄干に両手をかけて、川を見下ろす。理由は自分でもよくわからない。ただ、ここで立ち止めると何かが落ち着く。
川の表面が、街灯の光をぼんやりと受けて鈍く光っている。水の流れは、見ていてもほとんどわからない。それでも確かに動いていて、下流へ、下流へと向かっている。
対岸の木々の輪郭が、空の暗さの中にぼんやりと浮かんでいる。
もう少しすれば、あの木々に桜が咲く。毎年この橋の上から眺める桜は、誠司が東京で好きな数少ない風景のひとつだった。
鹿児島の桜とは違う。向こうの桜はもっと野性的で、風が吹くと花びらが大量に舞って、地面を薄く覆った。こちらの桜は整然としていて、美しいが、どこか管理された美しさだ。
どちらが好きかと聞かれたら、誠司は答えられない。
欄干から手を離して、また走り始めた。
帰宅すると、家の中はまだ静かだった。
里佳は朝七時前には起きてくるが、今はまだ寝ている。花も同じだ。
誠司は玄関で靴を脱ぎ、リビングを通り抜けてバスルームへ向かった。シャワーを浴びながら、今日の仕事のことを頭の中で整理する。午前中に取引先への資料を仕上げて、午後は部内の打ち合わせ。夕方には課長に進捗を報告しなければならない。
特別なことは何もない。今日も昨日と同じような一日が来る。
それが悪いとは思っていない。誠司は本当にそう思っている。
安定した仕事があり、穏やかな妻がいて、よく笑う娘がいる。それは多くの人間が望むものだ。望んで、手に入れた。文句を言う筋合いはない。
ただ——と、シャワーの湯を止めながら誠司は思う。
ただ、何だろう。
うまく言葉にならない何かが、胸の底の方にある。痛くはない。ただそこにある。長い間そこにあり続けているせいで、もうその形も輪郭もよくわからなくなっているが、確かにある。
誠司はタオルで髪を拭きながら、洗面台の鏡を見た。三十八歳の顔。
特別にくたびれているわけでも、特別に老けているわけでもない。ただ、どこかで時間が止まっているような顔だと、自分では思う。何かを待っているような、あるいは何かを諦めきれていないような。
自分で自分の顔を見るのが、少し苦手だ。
着替えを済ませて、書斎に入った。
「書斎」といっても、六畳の洋室に机と本棚を入れただけの小さな部屋だ。誠司が在宅勤務のときに使う机は、普段は書類や本が積み重なっている。今朝は出勤前に少し片付けようと思い立って、引き出しを開けた。
領収書の束。読みかけの文庫本。クリップがばらばらになったもの。折り目のついた名刺。古い手帳。
そして、引き出しの一番奥に、それはあった。
万年筆。
誠司は、しばらく引き出しの中を見つめていた。
細身の、黒いボディのそれは、二十年の時間の中でくすんではいるが、原形は保っている。どこかのブランドものでも何でもない、文房具屋で売っていた三千円ほどの万年筆だ。それでも高校生の誠司には大きな買い物だった。なけなしの小遣いをはたいて、薩摩川内の文房具屋のガラスケースの中から選んだ。
あかりと一緒に選んだ。
二人で並んでケースを覗き込んで、あかりが「これがいい」と言った。黒いのがいい、シンプルなのがいい、と。誠司はその言葉に従っただけだったが、今でもその選択に満足している。派手でないから、二十年経っても飽きない。
誠司は万年筆を手に取った。
机の端に置いてあった白い紙を引き寄せて、ペン先を走らせた。
何も出なかった。
インクが切れて久しい。それはわかっていた。わかっていて、それでもたまに試してしまう。なぜかはわからない。もしかしたら、いつかインクが出ることを期待しているのかもしれない。あるいは、出ないことを確認することで、何かを確かめているのかもしれない。
捨てようと思ったことは、何度もある。
こんなものを持っていても仕方がない。もう使わない。使えない。引き出しの場所を取るだけだ。そう思って手に持ったことが、三度か四度あった。でも捨てられなかった。捨てるという動作の途中で、手が止まった。
なぜ止まるのか、誠司にはわかっている。
ただ認めたくないだけだ。
万年筆を引き出しに戻した。その下に、別のものがあった。
封筒の束。
輪ゴムで束ねられた、十数通の封筒。薄く変色している。宛名は誠司の大学時代のアパートの住所で、差出人の欄には「坂元あかり」とある。
誠司は束を手に取らなかった。引き出しの中で指先が触れただけで、すぐに離した。
引き出しを閉めた。
時計を見ると、七時を過ぎていた。リビングの方から、里佳が動く音がした。冷蔵庫を開ける音。やかんを火にかける音。それらの音が、静かな朝の家の中に規則正しく響いていた。
東亜トレーディングの営業部は、新宿の雑居ビルの八階にある。
誠司が入社したのは二十三歳のときだ。
十五年が経った。最初は右も左もわからず、先輩に怒鳴られながら取引先を回った。三十を過ぎたころから少しずつ仕事が面白くなってきて、三十五歳で課長補佐になった。出世が早いわけでも遅いわけでもない。ほどほどに評価されて、ほどほどのポストにいる。
それを不満に思ったことはない。本当に。
昼休み、誠司は同僚の田中と近くのラーメン店に入った。田中は誠司より五歳若い、営業二課の主任だ。よく喋る男で、誠司はその賑やかさに時々助けられる。
「永瀬さんって、学生時代どんな感じだったんですか」
田中がラーメンをすすりながら、唐突に聞いた。
「どんな感じって」
「恋愛とか。大学時代とか、高校時代とか」
誠司は箸を止めた。
「普通だよ」
「普通って何ですか、普通って」田中が笑った。
「彼女とかいたんでしょ?」
「まあ、いたよ」
「どんな人?」
誠司はスープを一口飲んだ。熱かった。
「普通の人だよ」
田中が何か続けようとしたが、誠司の表情を見て察したのか、「そうですか」と言って自分のラーメンに戻った。
普通。
誠司はその言葉を、心の中で転がした。
普通ではなかった。何一つ、普通ではなかった。出会い方も、付き合い方も、別れ方も。
電車の中で見かけた横顔に、一ヶ月かけて勇気を溜めて、震える手でラブレターを書いた。
遠距離になってからは、電話代が高くて満足に話せないから、代わりに手紙を書いた。万年筆でゆっくり一字一字書いて、封をして、ポストに投函するたびに、これが届くのが三日後だと思った。三日後の彼女がこれを読む姿を想像した。
普通では、なかった。
でも今の誠司には、それを「普通ではなかった」と誰かに語る言葉がない。語ったところで、何になる。終わったことだ。もう二十年も前の話だ。
田中が「あ、そういえば」と別の話を始めた。誠司はラーメンを食べながら、うなずいた。
夕方、仕事を終えて京王線に乗った。
誠司はシートに座って、目を閉じた。
帰りの電車は、いつも眠い。行きの電車では仕事のことを考えるが、帰りはもう何も考えたくない。目を閉じて、電車の揺れに身を任せる。
隣に人が座った気配がした。
向かいのドア付近に、人が立っている気配もした。
誠司は目を開けなかった。
聖蹟桜ヶ丘まで、あと何駅か。揺れに揺れて、少しずつ家に近づいていく。毎日同じ電車に乗って、毎日同じ家に帰る。それが日常だ。日常は、悪いものではない。
ただ——また、その「ただ」が来た。
誠司は目を閉じたまま、眉間に少しだけ力を入れた。
この「ただ」の後に何が来るのか、自分でもわかっている。だから考えないようにしている。考えても仕方がない。終わったことで、変えられないことで、取り戻せないことだ。
電車が駅に滑り込んだ。ドアが開いて、人が降りた。また人が乗ってきた。
誠司は目を閉じたまま、その気配だけを感じていた。
夕飯は里佳が作った豚の生姜焼きだった。
「今日、花ね、算数のテストが返ってきたんだよ」
花が箸を持ったまま言った。十歳の娘は、食事中に今日あったことを全部喋らないと気が済まない性質で、誠司はそれが好きだった。里佳も笑顔で「何点だったの」と聞く。
「八十二点」
「頑張ったじゃない」
「でも百点じゃなかった。ケアレスミスだもん」
「ケアレスミスなら次は直せるね」と誠司は言った。花が「そうだよ」と少し得意そうに言った。
里佳が誠司の茶碗にご飯をよそいながら、「今日は遅くなかったね」と言った。責めているわけでも、喜んでいるわけでもない、ただ事実を確認するような穏やかな声だった。
「打ち合わせが早く終わった」
「そう」
それだけの会話だった。
里佳は悪い妻ではない。誠司はそれをよく知っている。几帳面で、真面目で、家のことを丁寧にやってくれる。花をよく育てている。自分の感情を大げさに表現しない、静かな女性だ。
その静かさが、時々、誠司には遠く感じる。
いや、遠いのは里佳ではないのかもしれない。遠いのは自分だ。自分がどこか、この食卓から少し浮いている。いつからそうなのかはわからない。気づいたらそうなっていた。
花が「パパ、聞いてる?」と言った。
「聞いてるよ」
「じゃあ今言ったこと、なんて言った?」
誠司は少し間を置いた。
「算数、次は百点取る、だろ」
花が「ちがーう」と笑った。「来週、遠足って言ったの」
「そうか、遠足か。どこ行くんだ」
花が遠足の行き先を嬉しそうに説明し始めた。里佳がお茶を注いだ。生姜焼きの匂いが漂う、温かい食卓だった。
誠司はそれを、少し遠くから見ているような気がした。
夜、花が眠ってから、誠司は書斎に入った。
明日の資料を確認するためだったが、机に向かうと自然に引き出しに手がいった。
また開けた。
万年筆を手に取った。今度は紙に走らせなかった。ただ手の中で転がした。軽い。こんなに軽いものだったか。高校生の自分が持ったときは、もっと重かった気がした。なけなしの小遣いで買ったから重かったのか。それとも、これで書く言葉の重さが、ペンそのものを重くしていたのか。
ラブレター。
その言葉を思い出すたびに、誠司は少し恥ずかしくなる。
今の自分にはとても書けないものを、十七歳の自分は書いた。原稿用紙三枚。何度も書き直して、最終的に清書したものを便箋に写して、封をした。
渡すのに一週間かかった。
電車の中で何度も取り出して、何度もしまった。隣で拓海が「早よ渡さんか」と囁いた。
あかりはその日も、ドアの脇で窓の外を見ていた。
渡した瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。
電車が駅に着いて、ドアが開く直前、誠司は「これ」と言って封筒を差し出した。あかりが振り向いて、封筒を見て、誠司の顔を見た。その二秒か三秒の間に、誠司は自分の心臓がどこかへ行ってしまうような気がした。
あかりは封筒を受け取って、ドアが開いて、降りていった。
振り返らなかった。
翌日の電車で、あかりは誠司の隣に立った。それがすべての始まりだった。
万年筆を引き出しに戻した。
手紙の束には、今日も触れなかった。触れたら、何かが崩れるような気がして。二十年間そう思い続けて、二十年間触れなかった。そのうちそれは、触れてはいけないものになった。
スマホが光った。
画面を見ると、LINEの通知だった。
黒木拓海。
誠司は少し目を細めた。拓海から連絡が来るのは、年に数回だ。正月と、夏と、あとは不定期に。今年はまだ連絡がなかった。
メッセージを開いた。
『来月、東京出張が入りそうや。久しぶりに会わんか。あと、もう一人、声かけてもいいか』
誠司は画面を見つめた。
もう一人。
その言葉が、妙に引っかかった。拓海が東京で会う「もう一人」など、誠司には心当たりが一人しかいない。いや、心当たりというより——考えすぎだ。東京には多くの人間がいる。拓海の知り合いも大勢いるだろう。
誠司は返信を打った。
『ああ、久しぶりだな。いいよ』
送信ボタンを押してから、スマホを机に置いた。
書斎の窓の外は、夜の住宅地だった。街灯がいくつか光っていて、その向こうに多摩川の方角がある。川はここからは見えないが、ある方向だということはわかっている。
誠司はしばらく、その暗い窓を見ていた。
多摩川は今夜も流れている。見えなくても、確かに。
下流へ、下流へ。




