第11話「三宅由希からのメール」
八月の終わり、夏が少しだけ疲れ始めたころだった。
誠司のスマホに、見慣れないメールアドレスからメッセージが届いたのは、残暑の続く月曜日の昼過ぎだった。
件名は「久しぶりです」とだけあった。
誠司は最初、迷惑メールかと思った。でも本文の最初の一行を見て、手が止まった。
『永瀬くん、三宅由希です。突然ごめんなさい。年賀状のメールアドレスに送りました。元気にしていますか』
三宅由希。
誠司はしばらく、画面を見つめた。
由希から連絡が来たのは、いつぶりだろうか。年賀状のやりとりは続いていたが、直接メッセージが来たのは、何年も、いや十年以上ぶりかもしれなかった。
誠司はメールを読み進めた。
由希のメールは、近況から始まっていた。
今も東京にいること。出版社に勤めていること。結婚はしていないこと。最近、大学時代の友人と集まる機会があって、誠司のことを思い出したこと。
そして、こう続いていた。
『永瀬くんに、ずっと聞けなかったことがあって。もし良ければ、一度会って話せませんか。大した話ではないかもしれないけど、私にはずっと引っかかっていることで』
大した話ではないかもしれないけど、ずっと引っかかっていること。
誠司は、その一行を何度か読んだ。
由希が「ずっと引っかかっていること」。
心当たりが、あるような、ないような。でも由希の名前が出てくるたびに、誠司の頭の中には、必ずあかりのことが浮かんだ。あかりに誤解させた相手。手紙の中で名前を書いた、あの名前。
誠司は返信を打った。
『久しぶり。元気にしてるよ。会えるよ、都合のいい日を教えて』
送信してから、窓の外を見た。
夏の終わりの空は、少し高くなっていた。入道雲が遠くに見えたが、もう夏の盛りの力強さはなかった。くたびれた雲だった。
由希と会ったのは、それから一週間後だった。
神保町の、古い喫茶店。由希が指定した店は、大学時代に何度か来たことのある場所だった。木の床が軋む、煙草の染みついた匂いのする、時間の止まったような店。
由希は先に来ていた。
十五年以上ぶりに見る由希は、大学時代の面影を残しながら、確かに年を重ねていた。髪が短くなっていた。でも目の鋭さは変わっていなかった。由希は昔から、人の本質を見抜くような目をしていた。
「久しぶり」と由希は言った。
「久しぶり」と誠司は言った。
向かい合って座った。コーヒーを頼んだ。
最初は近況の話をした。お互いの仕事、生活、東京の変わりようについて。由希はよく喋った。昔と変わらず、言葉が速くて、面白かった。誠司は相槌を打ちながら、由希がいつ本題に入るのかを、どこかで待っていた。
コーヒーが二杯目になったころ、由希が少し表情を変えた。
喋りながら笑っていた顔が、静かになった。
「永瀬くん」と由希は言った。
「ん」
「坂元さんと、今でも連絡とってる?」
誠司は、コーヒーカップをソーサーに戻した。
「なぜ」
「やっぱり」と由希は言った。「なんとなく、そんな気がしてた」
「なんとなく、とは」
由希は少し考えてから、言った。
「SNSで、たまに見るのよ。永瀬くんが多摩に住んでるって、誰かから聞いたことがあって。坂元さんも多摩って聞いてたから。偶然にしては、できすぎだなって」
誠司は何も言わなかった。
由希が続けた。
「責めてるわけじゃない。ただ、だとしたら、私が言わなきゃいけないことがある、と思って」
「何を」
由希はコーヒーカップを両手で持って、少しの間、下を向いた。
何かを選んでいるような間だった。言葉を選んでいるのではなく、言うかどうかを、最後に選んでいるような。
顔を上げた。
「坂元さんに、手紙のこと、話したことある?」
誠司の息が、一瞬、止まった。
「手紙、というのは」
「永瀬くんが、最後に出した手紙のこと」
店の中が、静かだった。
他の客の話し声が、遠くで聞こえていた。木の床を、誰かが歩く音がした。でも誠司には、自分と由希の間だけに、静寂があるように感じた。
「あの手紙が、届かなかったのは知ってる」と誠司は言った。
「あかりに電話したとき、届いていないと言っていた」
「届かなかったんじゃなくて」と由希は言った。
一呼吸、置いた。
「握り潰されたのよ」
誠司は由希の顔を見た。
由希は目を逸らさなかった。
「どういうことだ」
「私が直接見たわけじゃない。だから確かなことは言えない。でも、私が知っていることを話す」
由希が話し始めた。
大学三年生の秋、由希はゼミの帰りに誠司のアパートに寄ったことがあった。課題の資料を借りるためだった。
誠司は不在だった。
誠司は不在だった。
でもドアが、少し開いていた。
由希が不思議に思ってノックすると、中から人が出てきた。
誠司の母親だった。由希は面食らった。誠司の母が上京していることを、知らなかった。
母親は由希を見て、少し驚いた顔をしてから、「誠司の友達?」と聞いた。
由希が「ゼミの友達です」と答えると、「そう、誠司はすぐ戻ると思うけど」と言って、部屋を出てきた。
そのとき、母親の手に、封筒があった。
封のされていない、便箋が入ったままの封筒。
由希には、それが誰に宛てたものかまではわからなかった。ただ、母親がその封筒を、部屋から持ち出してバッグにしまうのを、見た。
由希は何も言えなかった。
部屋の中が少し見えていた。机の上に、万年筆が出しっぱなしになっていた。便箋が何枚か、広げられたままだった。
由希はその場では何も思わなかった。ただ少し、引っかかった。
封のされていない手紙を、母親がなぜ持ち出すのか。でも他人の家の事情に、立ち入れなかった。
後になって、誠司とあかりのことを知ったとき、由希の頭の中で、あの場面が浮かんだ。
机の上の万年筆。広げられた便箋。封のされていない封筒。そしてそれを、バッグにしまった母親の手。
「便箋が広げられていたってことは」と由希は言った。
「お母さんは、中身を読んだと思う。読んだから、持っていったんだと思う」
誠司は、テーブルの上の自分の手を見た。
「何が書いてあったか、わかっていたんだ」と誠司は言った。声が、静かだった。
「待っていてくれ、と書いた。近いうちに会いに行くと書いた。それを読んで、持っていった」
由希は答えなかった。
答えの代わりに、少しうつむいた。
店の中が、静かだった。コーヒーの香りだけが、変わらず漂っていた。
「私ね」と由希が言った。
「あのとき、止めればよかったと、ずっと思ってた。封筒持ってますよね、それ誠司くんの手紙じゃないですか、って言えばよかった。でも言えなかった。他人の親子のことに、口を出せなかった」
「お前のせいじゃない」と誠司は言った。
「わかってる。でも、ずっと引っかかってた。だから今日、話した」
誠司は窓の外を見た。
神保町の夜が、静かだった。
母親は、読んだのだ。
待っていてくれ、という息子の言葉を読んで、持ち去った。
息子が東京で所帯を持つことを願っていた母親が、地方の工場で働く女への手紙を、握り潰した。
悪意だったのか。
愛情だったのか。
その両方が、同じ手の中にあったのかもしれなかった。
誠司は窓の外を見た。
神保町の古い街並みが見えた。本屋の立ち並ぶ通り。人が歩いている。何事もなく、時間が流れている。
母親の顔が、浮かんだ。
鹿児島の、漁師の妻の顔。小さくて、働き者で、息子に大学へ行けと言い続けた人。
息子が東京の大学へ入ったとき、泣いた。息子が就職したとき、また泣いた。
その母親が、息子の手紙を、握り潰したかもしれない。
なぜ。
理由は、想像できた。
息子に、地元の女と結婚してほしくなかった。漁師の家に生まれた息子が、東京の大学へ行って、東京で就職して、東京で所帯を持つ。それが母親の描いた息子の未来だったのかもしれない。
確かめようがない。
母親はもう、七十を過ぎていた。記憶が定かでない部分も増えていた。今さら問いただすことも、できないかもしれない。
「永瀬くん」と由希が言った。「ごめんね。こんな話して」
「いや」と誠司は言った。「話してくれてよかった」
本当にそう思っていた。
二十年間、わからなかったことの輪郭が、今夜初めて見えた。
あかりは手紙が来なくなったと思っていた。誠司が冷めたと思っていた。
でも誠司は、手紙を書いていた。待っていてくれ、と書いていた。
届かなかっただけだった。
店を出ると、夜になっていた。
神保町の夜は、本屋の灯りが多い。誠司は由希と別れてから、しばらく歩いた。
どこへ行くとも決めずに、ただ歩いた。
母親への怒りが、ないわけではなかった。あるいはあった。でも不思議と、それよりも大きな感情が胸の中にあった。
悲しみ、とも違う。
後悔、とも違う。
強いて言えば、腑に落ちた、という感覚だった。
二十年間、わからなかった。なぜあかりと別れなければならなかったのか。どこで何が食い違ったのか。自分の臆病さのせいだと思っていた。あかりが安定を選んだからだと思っていた。
でも、そうではなかった。
あの手紙が届いていたら。
待っていてくれ、という言葉があかりに届いていたら。
あかりは、どうしていたか。
誠司には、わからなかった。
わからなかったが、考えた。考えずにいられなかった。
あかりは、あの手紙を読んで、待っていてくれただろうか。
見合いの話を断っていただろうか。
誠司のことを、選んでいただろうか。
わからない。
でも、可能性はあった。
二十年前に、可能性はあった。
その可能性を、誰かが——あるいは何かが——奪った。
深夜、帰宅した誠司は、書斎に入った。
引き出しを開けた。
万年筆。手紙の束。キーホルダーの片割れ。
手紙の束を手に取った。
輪ゴムを外して、一通一通確かめた。あかりからの手紙が、十七通。すべてある。
でも、あかりが受け取るべきだった手紙は、ここにない。
ここにないその手紙が、二十年間、どこにあったのか。
誠司は手紙の束を机の上に置いて、椅子に座った。
天井を見た。
あかりに、話さなければならない。
今度こそ、逃げずに、話さなければならない。
あの手紙のことを。届かなかった言葉のことを。待っていてくれ、と書いたことを。
話して、何が変わるのかはわからない。
今さら知って、あかりがどう思うかもわからない。
ただ、あかりは知る権利がある。
二十年間、誤解したまま生きてきた。誠司が冷めたと思いながら、安定を選んだと自分を納得させながら、生きてきた。
でもそれは、本当のことではなかった。
誠司は、待っていてくれと書いた。
その事実だけは、あかりに伝えなければならない。




