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あなたのいない場所で、愛している 永瀬誠司とあかりの物語   作者: かーすけ
【夏】情熱 燃えてはいけない火 

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11/23

第11話「三宅由希からのメール」

 八月の終わり、夏が少しだけ疲れ始めたころだった。

 誠司のスマホに、見慣れないメールアドレスからメッセージが届いたのは、残暑の続く月曜日の昼過ぎだった。

 件名は「久しぶりです」とだけあった。

 誠司は最初、迷惑メールかと思った。でも本文の最初の一行を見て、手が止まった。

『永瀬くん、三宅由希です。突然ごめんなさい。年賀状のメールアドレスに送りました。元気にしていますか』

 三宅由希。

 誠司はしばらく、画面を見つめた。

 由希から連絡が来たのは、いつぶりだろうか。年賀状のやりとりは続いていたが、直接メッセージが来たのは、何年も、いや十年以上ぶりかもしれなかった。

 誠司はメールを読み進めた。


 由希のメールは、近況から始まっていた。

 今も東京にいること。出版社に勤めていること。結婚はしていないこと。最近、大学時代の友人と集まる機会があって、誠司のことを思い出したこと。

 そして、こう続いていた。

『永瀬くんに、ずっと聞けなかったことがあって。もし良ければ、一度会って話せませんか。大した話ではないかもしれないけど、私にはずっと引っかかっていることで』

 大した話ではないかもしれないけど、ずっと引っかかっていること。

 誠司は、その一行を何度か読んだ。

 由希が「ずっと引っかかっていること」。

 心当たりが、あるような、ないような。でも由希の名前が出てくるたびに、誠司の頭の中には、必ずあかりのことが浮かんだ。あかりに誤解させた相手。手紙の中で名前を書いた、あの名前。

 誠司は返信を打った。

『久しぶり。元気にしてるよ。会えるよ、都合のいい日を教えて』

 送信してから、窓の外を見た。

 夏の終わりの空は、少し高くなっていた。入道雲が遠くに見えたが、もう夏の盛りの力強さはなかった。くたびれた雲だった。


 由希と会ったのは、それから一週間後だった。

 神保町の、古い喫茶店。由希が指定した店は、大学時代に何度か来たことのある場所だった。木の床が軋む、煙草の染みついた匂いのする、時間の止まったような店。

 由希は先に来ていた。

 十五年以上ぶりに見る由希は、大学時代の面影を残しながら、確かに年を重ねていた。髪が短くなっていた。でも目の鋭さは変わっていなかった。由希は昔から、人の本質を見抜くような目をしていた。

「久しぶり」と由希は言った。

「久しぶり」と誠司は言った。

 向かい合って座った。コーヒーを頼んだ。

 最初は近況の話をした。お互いの仕事、生活、東京の変わりようについて。由希はよく喋った。昔と変わらず、言葉が速くて、面白かった。誠司は相槌を打ちながら、由希がいつ本題に入るのかを、どこかで待っていた。


 コーヒーが二杯目になったころ、由希が少し表情を変えた。

 喋りながら笑っていた顔が、静かになった。

「永瀬くん」と由希は言った。

「ん」

「坂元さんと、今でも連絡とってる?」

 誠司は、コーヒーカップをソーサーに戻した。

「なぜ」

「やっぱり」と由希は言った。「なんとなく、そんな気がしてた」

「なんとなく、とは」

 由希は少し考えてから、言った。

「SNSで、たまに見るのよ。永瀬くんが多摩に住んでるって、誰かから聞いたことがあって。坂元さんも多摩って聞いてたから。偶然にしては、できすぎだなって」

 誠司は何も言わなかった。

 由希が続けた。

「責めてるわけじゃない。ただ、だとしたら、私が言わなきゃいけないことがある、と思って」

「何を」

 由希はコーヒーカップを両手で持って、少しの間、下を向いた。

 何かを選んでいるような間だった。言葉を選んでいるのではなく、言うかどうかを、最後に選んでいるような。

 顔を上げた。

「坂元さんに、手紙のこと、話したことある?」

 誠司の息が、一瞬、止まった。

「手紙、というのは」

「永瀬くんが、最後に出した手紙のこと」


 店の中が、静かだった。

 他の客の話し声が、遠くで聞こえていた。木の床を、誰かが歩く音がした。でも誠司には、自分と由希の間だけに、静寂があるように感じた。

「あの手紙が、届かなかったのは知ってる」と誠司は言った。

「あかりに電話したとき、届いていないと言っていた」

「届かなかったんじゃなくて」と由希は言った。

 一呼吸、置いた。

「握り潰されたのよ」

 誠司は由希の顔を見た。

 由希は目を逸らさなかった。

「どういうことだ」

「私が直接見たわけじゃない。だから確かなことは言えない。でも、私が知っていることを話す」


 由希が話し始めた。

 大学三年生の秋、由希はゼミの帰りに誠司のアパートに寄ったことがあった。課題の資料を借りるためだった。

 誠司は不在だった。

 誠司は不在だった。

 でもドアが、少し開いていた。

 由希が不思議に思ってノックすると、中から人が出てきた。

 誠司の母親だった。由希は面食らった。誠司の母が上京していることを、知らなかった。

 母親は由希を見て、少し驚いた顔をしてから、「誠司の友達?」と聞いた。

 由希が「ゼミの友達です」と答えると、「そう、誠司はすぐ戻ると思うけど」と言って、部屋を出てきた。

 そのとき、母親の手に、封筒があった。

 封のされていない、便箋が入ったままの封筒。

 由希には、それが誰に宛てたものかまではわからなかった。ただ、母親がその封筒を、部屋から持ち出してバッグにしまうのを、見た。

 由希は何も言えなかった。

 部屋の中が少し見えていた。机の上に、万年筆が出しっぱなしになっていた。便箋が何枚か、広げられたままだった。

 由希はその場では何も思わなかった。ただ少し、引っかかった。

 封のされていない手紙を、母親がなぜ持ち出すのか。でも他人の家の事情に、立ち入れなかった。

 後になって、誠司とあかりのことを知ったとき、由希の頭の中で、あの場面が浮かんだ。

 机の上の万年筆。広げられた便箋。封のされていない封筒。そしてそれを、バッグにしまった母親の手。

「便箋が広げられていたってことは」と由希は言った。

「お母さんは、中身を読んだと思う。読んだから、持っていったんだと思う」

 誠司は、テーブルの上の自分の手を見た。

「何が書いてあったか、わかっていたんだ」と誠司は言った。声が、静かだった。

「待っていてくれ、と書いた。近いうちに会いに行くと書いた。それを読んで、持っていった」


 由希は答えなかった。

 答えの代わりに、少しうつむいた。

 店の中が、静かだった。コーヒーの香りだけが、変わらず漂っていた。

「私ね」と由希が言った。

「あのとき、止めればよかったと、ずっと思ってた。封筒持ってますよね、それ誠司くんの手紙じゃないですか、って言えばよかった。でも言えなかった。他人の親子のことに、口を出せなかった」

「お前のせいじゃない」と誠司は言った。

「わかってる。でも、ずっと引っかかってた。だから今日、話した」


 誠司は窓の外を見た。

 神保町の夜が、静かだった。

 母親は、読んだのだ。

 待っていてくれ、という息子の言葉を読んで、持ち去った。

 息子が東京で所帯を持つことを願っていた母親が、地方の工場で働く女への手紙を、握り潰した。

 悪意だったのか。

 愛情だったのか。

 その両方が、同じ手の中にあったのかもしれなかった。

 誠司は窓の外を見た。

 神保町の古い街並みが見えた。本屋の立ち並ぶ通り。人が歩いている。何事もなく、時間が流れている。

 母親の顔が、浮かんだ。

 鹿児島の、漁師の妻の顔。小さくて、働き者で、息子に大学へ行けと言い続けた人。

 息子が東京の大学へ入ったとき、泣いた。息子が就職したとき、また泣いた。

 その母親が、息子の手紙を、握り潰したかもしれない。

 なぜ。

 理由は、想像できた。

 息子に、地元の女と結婚してほしくなかった。漁師の家に生まれた息子が、東京の大学へ行って、東京で就職して、東京で所帯を持つ。それが母親の描いた息子の未来だったのかもしれない。

 確かめようがない。

 母親はもう、七十を過ぎていた。記憶が定かでない部分も増えていた。今さら問いただすことも、できないかもしれない。

「永瀬くん」と由希が言った。「ごめんね。こんな話して」

「いや」と誠司は言った。「話してくれてよかった」

 本当にそう思っていた。

 二十年間、わからなかったことの輪郭が、今夜初めて見えた。

 あかりは手紙が来なくなったと思っていた。誠司が冷めたと思っていた。

 でも誠司は、手紙を書いていた。待っていてくれ、と書いていた。

 届かなかっただけだった。


 店を出ると、夜になっていた。

 神保町の夜は、本屋の灯りが多い。誠司は由希と別れてから、しばらく歩いた。

 どこへ行くとも決めずに、ただ歩いた。

 母親への怒りが、ないわけではなかった。あるいはあった。でも不思議と、それよりも大きな感情が胸の中にあった。

 悲しみ、とも違う。

 後悔、とも違う。

 強いて言えば、腑に落ちた、という感覚だった。

 二十年間、わからなかった。なぜあかりと別れなければならなかったのか。どこで何が食い違ったのか。自分の臆病さのせいだと思っていた。あかりが安定を選んだからだと思っていた。

 でも、そうではなかった。

 あの手紙が届いていたら。

 待っていてくれ、という言葉があかりに届いていたら。

 あかりは、どうしていたか。

 誠司には、わからなかった。

 わからなかったが、考えた。考えずにいられなかった。

 あかりは、あの手紙を読んで、待っていてくれただろうか。

 見合いの話を断っていただろうか。

 誠司のことを、選んでいただろうか。

 わからない。

 でも、可能性はあった。

 二十年前に、可能性はあった。

 その可能性を、誰かが——あるいは何かが——奪った。


 深夜、帰宅した誠司は、書斎に入った。

 引き出しを開けた。

 万年筆。手紙の束。キーホルダーの片割れ。

 手紙の束を手に取った。

 輪ゴムを外して、一通一通確かめた。あかりからの手紙が、十七通。すべてある。

 でも、あかりが受け取るべきだった手紙は、ここにない。

 ここにないその手紙が、二十年間、どこにあったのか。

 誠司は手紙の束を机の上に置いて、椅子に座った。

 天井を見た。

 あかりに、話さなければならない。

 今度こそ、逃げずに、話さなければならない。

 あの手紙のことを。届かなかった言葉のことを。待っていてくれ、と書いたことを。

 話して、何が変わるのかはわからない。

 今さら知って、あかりがどう思うかもわからない。

 ただ、あかりは知る権利がある。

 二十年間、誤解したまま生きてきた。誠司が冷めたと思いながら、安定を選んだと自分を納得させながら、生きてきた。

 でもそれは、本当のことではなかった。

 誠司は、待っていてくれと書いた。

 その事実だけは、あかりに伝えなければならない。

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