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あなたのいない場所で、愛している 永瀬誠司とあかりの物語   作者: かーすけ
【夏】情熱 燃えてはいけない火 

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第10話「健一という男」

 同じ夜、藤本家の食卓は静かだった。


 あかりは浴衣から普段着に着替えて、夕飯の残りを温め直した。

颯太は部活の疲れで早々に自分の部屋へ引き上げていた。健一は珍しく、九時前に帰ってきた。

「早かったね」とあかりは言った。

「たまにはな」と健一は言って、ネクタイを緩めながらソファに座った。

 あかりは台所で湯を沸かしながら、祭りのことを考えていた。

 誠司の手。

 触れた瞬間のことを、何度も思い返していた。

 触れてから離すまでの、あの数秒。

 誠司の手の甲は、思っていたより温かかった。それだけのことだ。

 それだけのことが、今夜ずっと、体の中心に残っている。

 

 湯が沸いた。

 急須に茶葉を入れて、お茶を二杯淹れた。

 健一のいるリビングへ持っていった。

 健一は、ネクタイを外してソファにもたれていた。

 疲れているのが、見てわかった。目の下に影があった。

 四十一歳の顔は、あかりと結婚したころよりずっと疲れていた。

 でも文句を言わない。弱音を吐かない。それが健一という男だった。

「お茶、どうぞ」とあかりは言った。

「ありがとう」と健一は言った。

 お茶を一口飲んで、健一は少しの間、黙っていた。

 あかりは向かいの椅子に座って、自分のお茶を持った。


「今日さ」と健一が言った。「職場で、上司の親の介護の話になって」

「うん」

「うちも、そろそろ考えなきゃいけないなと思って」

 あかりは手の中のお茶を見た。

「義父さんと義母さん、今は元気だけど」

「七十過ぎてるからな。いつ何があるかわからない。近くに住んでるし、俺たちが中心に動くことになると思う」

「そうだね」とあかりは言った。


 健一の両親は、徒歩十分のところに住んでいた。

 あかりが多摩に来た理由の一つは、それだった。

 義両親の近くに住む。それが、この家族の形だった。

「老後のこともさ、ちゃんと話し合っておかないとな」と健一は言った。

「俺たちが元気なうちに」


 老後。

 その言葉が、あかりの胸の中に落ちた。

 老後、という言葉が示す時間の長さを、あかりは今夜初めて、体で感じた。

 これから先も、この家族として生きていく。

 颯太が大人になって、義両親の介護をして、健一と二人になって、老いていく。

 それが、この人生だ。

 あかりが選んだ人生だ。

「うん」とあかりは言った。

 健一が「何か食べるか」と言った。あかりが「温め直すよ」と言って、台所へ立った。


 冷蔵庫を開けながら、あかりは今夜の自分を見つめていた。

 神社での帰り道、誠司が「さっき」と言いかけた。

 あかりは「言わないで」と言った。

 言わないで、という言葉は、何を守るためだったのか。

 誠司を守るためではなかった。自分を守るためでもなかった。

 たぶん、今夜という時間を守るためだった。

 あの言葉を言わせてしまったら、今夜が別のものになる。

 今夜を、ただ美しい夏の夜のままにしておきたかった。

 それは正しい判断だったのか。

 わからなかった。

 正しいとか、間違いとか、そういう言葉が今夜は使えなかった。


 健一の夕飯を温めながら、あかりは健一のことを考えた。

 健一は悪い夫ではない。

 あかりは何度も、そこに戻ってくる。

 悪い夫ではない。誠実で、真面目で、家族のために働いている。あかりに怒鳴ったことも、手を上げたことも、一度もない。颯太をよく育てている。義両親を大切にしている。

 ただ、この人はあかりの内側を見ない。

 見ないのではなく、見えていないのかもしれない。

 

 十五年間、隣にいることで、見えているつもりになっているのかもしれない。

 あかりが今夜どこへ行ったか、健一は聞かなかった。

 友人と祭りへ行ってくると言ったとき、健一は「そうか」と言った。誰と、とは聞かなかった。楽しかったか、とも聞かなかった。

 それが、健一という男だった。

 信頼しているから聞かないのか。興味がないから聞かないのか。

 あかりにはもう、どちらかを見極める気力がなかった。


 夕飯を持っていくと、健一は「ありがとう」と言った。

 箸を持ちながら、健一が続けた。

「颯太、最近どうだ。学校は」

「部活が楽しいみたい。勉強はあまりやってないけど」

「まあ、中学のうちはそれでいい」

 健一はご飯を食べながら、穏やかに話した。 

 颯太のこと、職場のこと。あかりは相槌を打ちながら、健一の横顔を見ていた。

 疲れた顔だった。

 でもこの顔で、毎日働いている。この顔で、家族を養っている。

 あかりの胸の中で、罪悪感が静かに育った。

 今夜、誠司と祭りへ行った。誠司の手に触れた。振り払えなかった。帰り道、誠司が何かを言いかけて、あかりは「言わないで」と言った。

 その夜に、この人と向かい合って、お茶を飲んでいる。

 この人は何も知らない。

 何も知らないから、穏やかに話している。老後の話をする。颯太の話をする。あかりがここにいることを、当たり前のように思っている。

 当たり前に、していた。

 十五年間、当たり前にしていた。

 だからこそ、今夜の自分が、どれほど残酷なことをしているか、あかりにはわかった。


 食事が終わって、健一が「風呂に入ってくる」と言った。

 あかりは一人で食器を片付けた。

 お湯で茶碗を洗いながら、涙が出そうになった。

 泣く権利は、自分にはない、と思った。

 今夜あんなことをしておいて、泣く権利はない。

 健一に対して、颯太に対して、泣く権利はない。

 だから泣かなかった。

 食器を丁寧に洗った。水気を拭いて、棚に戻した。台所を片付けた。電気を消した。

 一つ一つの動作を、丁寧にやった。

 それが今夜の自分にできる、唯一の誠実さだった。


 寝室に入る前に、あかりは洗面台の前に立った。

 鏡の中の自分の顔を見た。

 罪悪感と、消えない熱が、同じ顔の中に同居していた。

 どちらかを消せれば、楽になれる。

 罪悪感を消せば、誠司への気持ちに正直になれる。

 熱を消せば、この家庭に戻れる。

 でも、どちらも消えない。どちらも消せない。

 あかりは水で顔を洗った。

 冷たい水が、熱くなった頬に気持ちよかった。

 タオルで顔を拭いて、鏡を見た。

 洗っても、どちらも消えていなかった。


 化粧ポーチを棚から取った。

 ファスナーを開けた。

 指先が、金属の感触に触れた。

 キーホルダーの片割れ。

 今夜、神社で誠司の手に触れた指が、今は冷たいキーホルダーに触れていた。

 あかりはそれを取り出さなかった。

 ただ、指先で触れたまま、目を閉じた。

 誠司も今ごろ、同じものを触っているだろうか。

 引き出しの奥で、万年筆と手紙の束と一緒に眠っているあの片割れに、触れているだろうか。

 わからない。

 わからないが、そうであってほしいような気がした。

 そうであってほしい、と思うこと自体が、もう、取り返しのつかない場所にいることを意味していた。

 あかりはファスナーを閉めた。

 電気を消した。

 廊下に出ると、浴室から健一の出てくる音がした。

「先に寝てていいよ」と健一が言った。

「うん」とあかりは言った。

 寝室に入って、布団に潜った。

 目を閉じた。


 瞼の裏に、今夜の神社の光が浮かんだ。屋台のオレンジ色の光。人波の中で触れた手。浴衣の袖。「言わないで」と自分が言った声。

 健一が寝室に入ってきた。

 布団の音がした。

 しばらくして、健一の寝息が始まった。

 いつも通りの、規則正しい、深い寝息。

 あかりはその音を聞きながら、目を閉じたまま、動かなかった。

 夏の夜が、長かった。

 どこかで花火の音がした。

 遠く、かすかに、夏の終わりを告げるような音だった。

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