【春】芽吹き——二十年分の空白 第一章「薩摩川内、始発電車」
三月の終わり、午後六時過ぎの京王線は、帰宅を急ぐ人々の体温と湿気でぬるく満たされていた。
藤本あかりは、ドア脇の手すりに片手をかけたまま、窓の外を流れる夕暮れを見ていた。
聖蹟桜ヶ丘まであと三駅。
ドラッグストアのパート勤務を終えた足は、それなりに疲れている。エプロンを脱いでも、体の中心のどこかに、今日一日の細々とした疲労が澱のように残っている。
車内がふいに揺れた。
あかりは視線を窓の外から車内に戻した。そして見た。
斜め向かいのドア付近に、スーツ姿の男が立っていた。
くたびれた濃紺のスーツ。革鞄を床に置き、吊り革を掴んで窓の外を見ている横顔。四十歳前後だろうか。そのうなじの輪郭が、どこか——。
あかりの息が、一瞬だけ止まった。
誠司。
心の中でそう呼んだ声は、自分でも驚くほど素直に出てきた。二十年ぶりに思い出したような声ではなく、昨日も呼んでいたかのような声で。
男がゆっくりと顔をこちらへ向けた。
知らない顔だった。
目が合い、あかりは反射的に視線を逸らした。胸の中で、小さな恥ずかしさと、それよりも大きな何か別のものが、波のように寄せて引いた。
次の駅で、その男は降りていった。
あかりはもう一度、窓の外に目を向けた。
夕暮れの住宅地が流れていく。切り取られた空の端が橙色に燃えていて、それがゆっくりと暗くなっていこうとしていた。
誠司。
もう一度、心の中でだけ呼んだ。今度は、確かめるように。
思えば、電車の中で人の横顔を見るとき、あかりはいつもどこかを探している。
自分でも気づいていなかった。いや、気づいていたのかもしれない。ただ認めてこなかっただけで。
窓に映る自分の顔が、夕闇の中に浮かんでいる。
三十八歳の、特別でも何でもない女の顔。髪は肩で切りそろえてある。
化粧は職場でうっすら直したきりで、もうほとんど落ちている。
誰かに似ていると思ったのは、今日が初めてではない。
電車に乗るたびに、あかりはドアの付近に立つ習慣がある。
シートに座ればいいのに、と自分でも思う。でも座れない。
正確には、座りたくない。
ドア脇に立って、乗り降りする人々の横顔を、なんとなく眺めていたい。
なぜそうするのか、ずっと考えないようにしていた。
でも今夜は、あの男の横顔のせいで、蓋が少し開いてしまった。
薩摩川内市の、海沿いの町。
あかりが育ったのは、鹿児島県の北西部に位置するその小さな地方都市の、さらに郊外の集落だった。
山と海の間に細長く広がった土地に、百世帯ほどが暮らしていた。
春は菜の花が斜面を黄色く染め、夏は入道雲が海の向こうから押し寄せてきて、秋になると山の木々が燃えるように色づき、冬の朝は田んぼに白い霜が張った。
美しい場所だった。
だから退屈だった。
十代のあかりは、その矛盾を言語化できないまま抱えて、毎朝同じ電車に乗って高校へ通っていた。
肥薩おれんじ鉄道の前身、当時はまだ国鉄の名残を引きずったその路線は、海沿いを走りながら途中で山の内側に折れ込み、薩摩川内の市街地を抜けていく。
車窓から見える海は、天気によって色が全く違った。曇りの日は鉛色で重く、晴れた日は驚くほど青く、夕方になると橙と赤のまだらに染まった。
高校に入って最初の春、あかりはその電車に乗りながら、自分がこの町を出ていく日のことを考えていた。どこへ行くかも、何をするかも、まだ何も決まっていなかった。ただ「出ていく」という感覚だけが、霧のようにそこにあった。
その朝、七時二十二分発の電車に乗り込んだあかりは、いつものようにドアの脇に立った。
発車してしばらくしたころ、次の駅で数人が乗り込んできた。
そのうちの一人が、同じドア付近に立った。
制服姿の男子生徒だった。
少し背が高く、鞄を肩にかけ、窓の外を見ていた。
特別に目を引くような顔立ちではない。
ただ、その立ち方が静かだった。
揺れる電車の中で、吊り革も掴まずに両足で踏ん張って、じっと外を見ている。
あかりは、その横顔を、ほんの二秒か三秒だけ見た。
それだけだった。それだけのはずだった。
翌日も、同じ車両に彼はいた。
その次の日も。
一週間が経つころには、あかりは七時二十二分発の電車の、後方から三両目のドア付近が、その男子生徒の定位置であることを知っていた。
自分がいつの間にかそこに向かって乗り込んでいることも、薄々気づいていた。
彼はいつも窓の外を見ていた。
本を読むでも、誰かと話すでもなく、ただ流れる景色を見ていた。
その横顔に、あかりは言葉のない何かを感じていた。
この町から出ていくことを夢見ている人間の顔、とでも言えばいいのか。
自分の中にあるものと、同じ種類の何かが、その横顔にあるような気がした。
五月になって、彼が同じクラスの生徒ではないと確認した。
二年生の教室を横から見ながら、違うと思った。
そうか一年生か、と考えた。いや、自分も一年生だから、同学年の可能性もある。
結局、その男子生徒の名前を知ったのは、入学から二ヶ月が過ぎたころだった。
体育の時間、グラウンドの隅で、隣のクラスの女子が話しているのが聞こえた。
「誰? あの子」
「永瀬くん。隣のB組」
「なんか静かだよね」
「でも面白いよ。しゃべると」
永瀬。
あかりはそっと、その名前を心の中で繰り返した。
現在に戻る。
京王線が聖蹟桜ヶ丘のホームに滑り込んだ。
あかりは手すりを放し、人の流れに乗って改札へ向かった。
夕暮れの駅前は、帰宅する人々と夕飯の買い物をする人々が入り混じって、あたたかな混雑を作っていた。
スーパーの袋を下げた母親が、小さな子どもの手を引いて歩いていく。
あかりは、その親子連れを目で追った。
自分の息子・颯太は今、中学一年生だ。もうあんなふうに手を引いてやれる歳ではない。
気づいたら、いつの間にかそうなっていた。
子育てというのはそういうものだと誰かに言われた気がするが、その「誰か」が誰だったかはもう思い出せない。
駅前の坂を下りながら、あかりは今夜の夕飯のことを考えた。
冷蔵庫に残っていたのは、豚肉と、大根と、豆腐。みそ汁と炒め物にすれば足りるだろう。
颯太は最近、食べる量が増えた。健一はまた遅くなると朝に言っていた。
坂の途中で、多摩川が見えた。
橙色の空を映して、川面が燃えるように光っている。
あかりは足を止めた。一秒か、二秒か。
電車の中で見た、あの知らない男の横顔を思った。
うなじの輪郭。吊り革を掴んだ手。そして自分の中から素直に出てきた、あの名前。
誠司。
二十年。
本当に、二十年が経った。
あかりは息を一つついて、また歩き始めた。
多摩川の橙色を背中に受けながら、夕飯の支度のために家へ向かった。
その夜、化粧を落としながら、あかりは洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。
三十八歳。
この顔を、誠司は知らない。
誠司が知っているあかりの顔は、十八歳のままだ。頬が丸く、前髪を眉のあたりまで下ろしていた、あの顔。
今の自分の顔を見せたら、彼はどんな顔をするだろう。
そんなことを考えていること自体、おかしい。
あかりは苦笑して、洗面台の水を止めた。タオルで顔を拭いながら、廊下の向こうの颯太の部屋から、ゲームの音が微かに聞こえているのに気づいた。
日常だ。これが日常だ。
化粧ポーチを棚に戻しながら、ふと手が止まった。
ポーチのファスナーを開ける。口紅の下に、ファンデーションの脇に、指先が触れた。金属の感触。
キーホルダーの片割れ。
安物の、とっくに色が剥げた、小さな金属片。もう片方がどこにあるのか、今もわからない。いや、知っている。知っているから、聞けない。
あかりはそれを取り出しもせず、ファスナーを閉めた。
洗面所の電気を消した。
廊下は薄暗く、颯太のゲーム音だけが規則的に続いていた。
眠れない夜というのは、いつも同じところへ帰っていく。
布団の中で、あかりは目を閉じた。
七時二十二分発の電車。後方から三両目。ドアの脇に立って、外を見ている横顔。
永瀬誠司がこの町にいるなんて、思ってもみなかった。
いや——本当に、思ってもみなかっただろうか。
多摩市に越してきたのは七年前だ。
夫の両親がこの町に住んでいるからという、ただそれだけの理由だった。
越してきた日、段ボール箱を運びながら、あかりはふと、この広い東京のどこかに誠司がいるということを考えた。
大学を出て東京で就職したと、卒業後しばらくして風のうわさで聞いた。
それだけだ。それだけのことを、一度だけ考えた。
そのはずだった。
でも今夜、電車の中であの横顔を見た瞬間、あかりの中で何かが動いた。眠っていたものが、寝返りを打つように。長い時間、じっとしていたものが、もぞりと身じろぎするように。
窓の外では、夜の多摩市が静かだった。
川の音は聞こえない。
でもあかりには、どこかでずっと、水が流れているような気がしていた。




