泡沫の願い
月の燈が夜の水平線に乱反射する。
水辺で水の精霊達が騒ぐ。何処にもないユートピアをまるでラッセルの写真集のように再現する。泡さえも幻想的で海底に月が眠っているような夜だ。
熱帯魚の群れが海底の月に口付けして行く。珊瑚礁が乱れ、淫靡に輝く。神々しい静けさに漁師は口笛を吹くのも忘れて、船を進める。
私達は大きな魚の影に隠れて、人間から身を潜める。魚類とも哺乳類とも言えない私達は何処から来て何処に帰るのかまだ分からない。ただ死ぬとしたら海底に消えていくのは知っている。
「あの男、イケてない?」
クレアが甘い声で囁く。人間にあるはずの足の部分が魚の尾のようにビッシリと鱗に塗れている。それはグロテスクのようで芸術的でもあった。
「クレア」とお転婆娘に私は呼びかけた。私の足もクレアと同じ魚の尾だ。
「男を好きになったら私達は泡になるって噂があるでしょ」
「リリーったら迷信深いんだから」
私達は人魚の歌を静かに歌った。それは人間の耳には夜の海の靡くような歌だ。優しく艶やかしい鮮やかな囁きに近い歌だ。
海底に沈んでいくようにゆったりと音が堕ちて行く。
私は海底から少し顔を出した。
「何してるのよ!リリー!」
私を呼ぶクレアの声を無視して、私は辺りを見渡した。気のせいだろうか。人間の声がしたと思ったのだが。
海は圧倒的存在感で世界を征服する。それに飲み込まれたら、私達は跡形もなく消え失せる。分かっていた。
夜の海の浜辺近くの浅瀬からいきなり深場になっている所に少女が沈んでいた。その少女は金髪の髪をショートカットにして、青いボーダーラインの上着と革製の短パンを身に纏っていた。もう時は早朝に近い深夜だと言うのに大人が近くにいない。だからと言って自殺を考えるような歳でもないはずだ。
私が抱き抱えると、少女が寒さに震えるように目を開けた。瀕死の状態なのが見て取れた。
「だ…れ?」
私は自分に人間の体温が無いことを知っていた。自分の鱗を1つへし折り少女の口に含ませる。そして、少女の瞼に触れ、優しく目を閉じさせた。
「忘れなさい」
私は少女を岸に帰した。
それからというもの、海の神の怒りを全身に浴びるような痛みに噎ぶようになった。私達は人間を想うと祟られるのだ。感情を持った人魚には天罰が下る。知らなかったとは言え、何と愚かなことをしたのだろう。
ボロボロに剥がれ落ちていく私の鱗を見てクレアやタリスやポーラが痛ましく顔を歪ませた。私達はいつも1人ではない。家族のようなものだった。
私は時折血を吐きながら、尚もあの少女はどうなったか気にしていた。今も人間の学び舎にいるかもしれない。或いは、奴隷商人に売られているかもしれない。だから、死にたくて海に身投げしたのかもしれない。だとしたら、本当に滑稽だ。
海の歌を私達は奏でる。それは艶やかで鮮明で囁くように海辺を撫でる。
月が揺れる。ラッセルの世界が顔面に広がっている。私達の唯一の友人だった人間の男だ。
またあの少女の体温に触れたい。少女が恋しい。
沈み行く身体を持ち上げて天井の月に手を伸ばす。鱗が1つまた1つと剥がれ、足が捥がれた人間のようになって断罪に屈し、終わりを見つめる。
終わりのない海底に堕ちて行き、祈りは痛みに変わり、涙は海水となり、喪われて行く力は歌に変わる。
少女に届くよう永遠に歌う。
私達は囁くように歌う。




