慈水竜の奇跡
僕は素早く影を纏い、全速力で彼女の元まで走った。目を見張って凍り付くリタを強く抱きしめて、鎌の形にした影を大きく振るい、脅威を一刀両断する。
斬ッッッッ!
しんと静まり返る神殿内に、火花と水しぶきがはらはらと舞い落ちる。
そんななか元凶ふたりは戦闘の構えをしたまま固まり、僕のことを凝視していた。
「……エキドゥニル。オケアニル」
僕が静かな声で名を呼ぶと、ふたりの肩がぴくりと跳ねた。
体に纏った影がゆらめき、巨大な竜の姿を形作る。
僕はその竜を背負ったまま、低い声で告げた。
「この子は僕の一番大切な友達だ。リタに何かあったら……僕は絶対にきみたちを許さない」
「ご……ごめんなさい」
「ごめんなさ……ぃ」
エキドゥニルとオケアニルは、小さくなって頭を下げた。
それぞれまとっていた神気も消え去って、あとにはオロオロするふたりだけが残る。
これでケンカの仲裁は完了だ。
僕はふうっと息を吐いて、リタへにっこりと笑いかける。
「ごめんね、リタ。巻き込んじゃって」
「い、いえ……こちらこそ、不用心ですみませんでした」
リタは目を丸くしたまま、か細い声で言う。
怖かったのかまだ少し体が震えていた。
それでもぎこちなく微笑んで、僕の顔を覗き込んでくる。
「やっぱりどんなピンチでも、レインくんが助けてくれますね」
「そ、そりゃそうだよ。友達だもん」
あたふたする僕をよそに、背後のふた柱はヒソヒソと言葉を交わす。
「ったく……神になってまだ二ヶ月のくせに、いっちょ前の殺気して……」
「レヴニルと似てる……ね」
「……本当に。怒ったときとかそっくりだわ」
そっちの会話が気になったけど、リタは依然として怯えていた。
オケアニルの方を盗み見つつ、僕の腕にぎゅうっとしがみつく。
「あの……あちらのお姉さんは一体どなたですか?」
「えっと、オケアニルだよ。水のスピリット・ドラゴン」
「つまり慈水竜様ですか!?」
「そうだ……よー」
オケアニルはのほほんと手を振る。
だけどリタは警戒を強めるだけだった。桃色の耳がぴーんっと立っている。
(神様同士のケンカに巻き込まれたわけだし、そりゃ怖かったよねえ……)
なんだか申し訳なくなったところで、ふとポケットの中のものを思い出した。
「あっ、そうだ。これを見て。リタ」
「な、なんですか……?」
僕は慌てて桃色の貝殻を取り出す。浜で拾ったお土産だ。
それをリタにそっと差し出す。
「これ、海で拾ったんだ。よかったらもらってくれる?」
「えっ……いいんですか?」
「うん。リタの髪と一緒の色でしょ、だからその……リタにあげたいな、って思って」
説明するうちに、だんだんと声がかすれていく。
心臓がうるさいくらいにバクバクと鳴り響き、手には汗がじんわりと滲む。ただ友達にお土産を渡すだけなのに、人生で一番って言ってもいいくらい緊張していた。
リタはしばらくぽかんとして貝殻を見つめていた。
だけど次第にその表情が和らいで……そっと手を伸ばして、貝殻を受け取ってくれた。
両手で包み込むようにして抱え、ふんわりと笑う。
「ありがとうございます。大切にしますね」
「っ……!」
その笑顔は、脳天に雷が落ちたくらいの衝撃を僕にもたらした。
リタから目が離せなくなって、微動だにできなくなる。心臓はもう早鐘を通り越してヘビメタバンドのドラムみたいだ。顔が真っ赤になるのが、鏡を見なくても分かった。
(いやいや! お嫁さんなんて、僕にはまだ早すぎるから!)
ヴォルグが変なことを言うから、意識しちゃったじゃんか!
慌ててかぶりを振って、おかしな気持ちを振り払う。
僕はぎこちない笑顔を浮かべてリタに言う。
「と、とにかく楽しみにしててよね。今はバタバタしてるけど、絶対に海への近道を作ってみせるから」
「はい! 約束ですよ」
リタはぱあっと顔を輝かせてうなずいてくれた。
ふう……よかった。ひとまず体の震えは止まったみたい。
ホッと胸を撫で下ろした、そのときだった。
「レイン」
「へ?」
背後で突然声がした。
びっくりして振り返ってみれば、すぐそこにはオケアニルが立っている。
彼女と僕の間には、さっきまでけっこうな距離があったはずなんだけど……。
おまけにののんびりした雰囲気から一転、オケアニルはどこか凜とした表情で僕を見つめていた。
「えっ、なに。オケアニル。どうかしたの?」
「レインは、海が近くなればいいの?」
「うん。そうだけど……」
「あっ、レインのバカ!」
視界の端で、なぜかエキドゥニルが慌てだす。
僕はキョトンとするしかない。
「それがどうかした……って、うわあっ!?」
「きゃあっ!?」
ドゴゴゴゴゴゴゴゴ――!
突然、突き上げるような揺れが僕らを襲った。
大地震はしばらく続き、僕はリタをぎゅうっと抱きしめて座り込む。
神殿の奥では何かが崩れる音がした。ああ……また修理しなくっちゃ。ごめん、レヴニル。
やがて地震が止まって、僕らはそっと顔を見合わせる。
「大丈夫、リタ。怪我はない?」
「は、はい。平気です」
リタは青ざめた顔でなんとかうなずく。
そこで肩をとんとんっと叩かれた。
オケアニルはそっと暗黒竜神殿の外――その右手を指し示す。
「見て」
「いったいなにが……はい?」
「へ……?」
僕は裏返った声を上げ、リタは目を丸くして固まった。
暗黒神殿は四方をぐるりと森に囲まれている。そのはずだったのに……東側が完全に開けていた。
その先に広がっているのは、白い砂浜と、真っ青な海。
間違いなく、僕が道を通そうとしていた浜辺だ。
あんぐりと口を開けて固まる僕らに、オケアニルは淡々と言う。
「海の範囲をちょびっとだけ広げた。これでいい?」
「そんな気軽に広げていいものなの!?」
僕は大声でツッコミを叫ぶしかなかった。
「っていうか、ここに生えてた木とか草とかどこに消えたの!? リスなんかの小動物もたくさん住んでたんだけど!? ひょっとしてみんな海の底!?」
「動植物は全部、別の場所に移転させた。土砂崩れなんかの心配もない。安全安心」
「うわ、フォローが万全だ……でも、だからってこれはやり過ぎなんじゃ……」
僕はごにょごにょと言葉を濁すしかない。
ここなら亜人村からのアクセスも抜群だし、眺めも最高だ。
だけど急に地形が変わったんだ。いいことばかりじゃないだろう。
「台風が来たら、神殿を直撃しないかな。あと、津波の被害もありそうだし……心配かも」
「そう? じゃあ、ちょっと待ってね」
「また!? 急に力を使わないでよね!?」
オケアニルがぱちんと指を鳴らすと、また地震が襲った。
僕らの見ている前でずごごごご……と轟音を上げながら地形が変わっていく。
神殿周辺が隆起し、目の前に木々が生い茂る。その林の向こうには、あの海辺が広がっていた。地震が収まったあと、オケアニルは言う。
「防風林を敷いた。これでもう大丈夫だよ」
「至れり尽くせりでうれしいけど……なんでまた急に?」
「……ふわあ」
オケアニルはあくびを噛み殺す。
それに伴って、キリッとした雰囲気から、元のゆるーい状態に戻る。
目元をごしごしこすりながら、オケアニルは言う。
「ひさびさに力を使った……よぉ……これがね、スペシャル特典……なの」
「スペシャル特典?」
「うん……そう」
オケアニルはにっこーと笑う。
「宝の地図に、三つの大財宝……四つある、それらのチェックポイントに……最初にたどり着いたひとには……水に関するお願いごとをなんでも叶えてあげちゃいまー……す」
「それが今の大工事!?」
僕はギョッとして叫んでしまう。
ズボンに押し込めていた地図を取り出し、しみじみとため息をこぼす。
「つまり僕ってば、宝の地図の第一発見者だったんだ……えっ、いやでも、お願いごとをなんでもって……それって大丈夫なの?」
神様がお願い事をなんでも叶えてくれる。
言葉にすると、とっても魅力的かもしれないけど……。
僕はぶるりと背筋を震わせる。
「それはつまり、敵国に大雨を降らせたり、干上がらせたり……そんなお願いごとでも叶えちゃうってこと……?」
「ううんー……人命に関わることは、ダメです……ぶーっ」
「ほっ、よかった……」
「永遠に水が湧き出る壺とか、豊漁とか……多くの人は、そんなお願い事……だね」
「待って、ちっともよくない。争奪戦待ったなしじゃん」
へたをすると、大財宝より価値がある。
僕の海で、いったいこれからどんな大混乱が起きるのか……想像したくない!
エキドゥニルも呆れ顔で肩をすくめてみせる。
「ほんっとーにこいつは迷惑千万なのよ。三百年前は我ちゃんの領土も湾岸線が変わったし……自分とこの海域でやりなさいよね!」
「だって、我氏の領海は人間が少ないんだ……もん」
オケアニルはふて腐れたように口を尖らせ、そうかと思えば僕を見やってにんまりと笑う。
その笑みは、まるで獲物を見つけた猫のような、無邪気な嗜虐性に満ちていた。
「暗黒竜だけど……レインは見てて楽しそう……期待してる……ね?」
「期待されても困るんだけど……?」
僕が真顔でツッコミを入れていると、背中からリタがひょこっと顔を出す。
「なにがなんだかよく分かりませんが……オケアニル様が海を近付けてくれたんですか?」
「そうだ……よー」
オケアニルは首根っこを押さえつけられたまま、ひらひらと手を振る。
そんな彼女に、リタはキラキラとまばゆいばかりの笑顔を向けた。
「リタ、ずっと海を見るのが夢だったんです! ありがとうございます!」
「ふふふ……どういたしまし……てー」
オケアニルはふんわりと笑う。
それは神様っていうよりも、撫でられた子猫みたいな表情だ。
僕はふたりの様子をうかがいつつ、小さくため息をこぼす。
「悪い神様じゃないみたいだけどねえ」
「悪気がないのが一番タチが悪いのよ」
「ごもっともすぎる……」
ともかくこうして僕らの生活圏内に、海が加わることになった。