疾走
人定の刻(夜の九時~十一時頃)にそろそろさしかかる遅い時間に、司馬朗は肩を落としながら帰って来た。粘り強く説得したが、結局、里の長老たちは孝敬里にとどまることを選択したという。
「こうなったら、やむを得ません。私たち一族はただちに出立し、黎陽へ移住します」
「そのほうがよかろう。道中、山賊などに襲われぬよう気をつけるのだぞ」
「胡母班様はどうなさいますか。よかったら、我らの荷台の中に隠れてください。安全な場所までお送りします」
胡母班が何らかの危険な任務を負い、袁紹軍に追われていることを薄々察している司馬朗は、そう提案してくれた。
しかし、胡母班は首を振って、「いや、結構」と断った。
「そなたたちが目指すのは黄河北岸の黎陽、俺が行くのは黄河の南の泰山。目的地が違う。それに、行動を共にして迷惑をかけたくない」
「ならば、せめて我が家の馬を一頭連れて行ってください。諸勢力の動向を探るために当家の食客たちを各地に潜り込ませておりましたが――先刻もどった食客が申すには、今日の朝方、美髯をたくわえた風格ある名士が、南陽郡から出張ってきた袁術軍の騎兵に黄河南岸の村で捕まり、その場で斬られるところを目撃したとのことです。その名士の特徴から考えて、どうも少府の陰脩様らしいのです。たとえ河を渡って袁紹軍の追跡を免れたとしても、黄河以南の地域では袁術軍に襲われる可能性があります」
「…………そうか」
胡母班は、平静を装って静かにそう呟いた。しかし、内心は(あの陰脩殿がか。早い……。捕捉されるのが早すぎる……)と衝撃を受けていた。
数多の逸材を野から発掘してきた陰脩は、人を見抜く天才だった。粗野なところが多い武人の胡母班などよりも、敵軍の動きを読む力に長けていただろうし、慎重かつ臨機応変な行動をとっていたはずである。陰脩殿ほどの知恵者ならば、俺みたいに敵に正体を看破されて追いかけ回されるという愚は犯さぬであろうと胡母班は思っていた。
しかし、司馬家の食客がもたらした情報によると、彼は袁術軍によってあっさり捕斬されたという。家柄だけが取り柄の袁術ごときが陰脩を易々と捕捉するなど、にわかには信じ難い話だ。しかも、董卓の影響下にある洛陽周辺の地域に兵を侵入させるのは非常に危険が伴う行為である。よほどの確信がなければ、袁術も部隊を派遣することはできまい。もしも食客の情報が事実ならば、反董卓連合軍解散を命ずる勅使となった陰脩がどこへ向かうかを袁術軍はあらかじめ把握していた恐れがある。
ふだん仲の悪い袁兄弟も、一族の仇討ちのために珍しく協力し、緻密に情報を共有し合っているということだろうか。
だが、それにしても、不気味なほどこちらの動きを先読みしている。あまり考えたくはないが、長安にいる内通者の誰かが、反董卓連合軍に情報を流しているのかも知れない。
(和平を望まぬ内通者といえば……やはり、董卓の誅殺を熱望している王允殿あたりが怪しいか。あの御仁ならば、我らの風貌や性格、人脈などを事細かに把握している。きっと、俺の先々の行動も分析し、袁紹や袁術に伝えているはずだ。ここは司馬朗の好意に甘えるべきだろうか……)
一瞬そう迷ったが、胡母班はすぐにその考えを打ち消して、再び首を左右に振った。
「気持ちは嬉しいが、いらぬよ。馬があったところで、待ち伏せしていた精鋭部隊に取り囲まれてしまったら、逃げ切れまい。馬の背中に翼でも生えて、ひとっ飛びで敵の包囲網を突破してくれるのなら別だがな」
冗談交じりではあるが、ハッキリと固辞した。
司馬朗はこれから、司馬懿ら弟たちと多数の食客、召し使いを引き連れ、戦の最前線の中を旅しなければならない。移動の手段となる馬は貴重なはずだ。たとえ一頭でも、もらうわけにはいかない。
「そのような戯れ言を……。徒歩ではなおさら、袁紹様や袁術様の軍勢からは逃げられぬでしょう」
「いざという時は、黄河に飛び込んで、泳いで逃げるさ。きっと河伯が助けてくれるはずだ。なにせ俺は、黄河の神とは酒を酌み交わしたことのある旧知の間柄だからな。……なあ、司馬懿?」
そう言うと、胡母班はニヤリと笑って、司馬懿の肩を叩いた。
司馬懿の心は、先ほど聞かされた奇怪な物語にまだ酔っているらしい。「は、はぁ……」とぼんやりとした返事をしただけであった。
「息災でな。また会おう」
司馬兄弟にそう言い捨てて、胡母班は屋敷を辞去した。夜陰に乗じて黄河を渡河し、義兄のいる兗州泰山郡をめざすつもりである。
(それにしても、不思議だ)
胡母班は、黄河の渡し場へと続く夜道を走りつつ、考えていた。
俗界と冥界を往還したあの冒険の結末――それは胡母家の悲劇に直結している。自分にとっては、笑いごとでは済まされない。他者に軽々しく語ることなど、半ば狂乱状態にあった一時期をのぞいては、今までなかった。それなのに、なぜ他人の子供に、怪談を語り聞かせるような気軽さでついつい喋ってしまったのか。
(俺の長男は怪談が好きだった。背格好が似ていて、好奇心旺盛な司馬懿といると、亡き長男に怪談を語り聞かせているような気分になってしまったのやも知れぬな……)
司馬家には、成人した司馬朗をふくめて、八人の子息がいた。自分も昔は、司馬防に負けない子福者で、家庭は賑やかだった。だが、いまはたった二人しか生き残っておらず、しかも戦乱を避けるため、ずっと故郷に残したままだ。息子たちをもう何年も抱きしめてやっていない。
故郷の我が子を捨て置きながら、少年の帝に尽くし、路頭に迷う都の孤児たちを助け、そして司馬家の次男には物語を聞かせてやり、己の父性本能を満たそうとしている……。胡母班は、ほんの一瞬、そんな我が身が滑稽に感じられてしまい、自嘲の笑みを浮かべていた。
「いたぞ! 胡母班だ! 捕まえろ!」
自虐の心にとらわれていた胡母班を現実に引き戻したのは、殺意に溢れる鋭声だった。
(この蛮声……昼間に耳にした袁紹軍の武人のものだな)
振り返ると、黒々とした騎影が二、三十迫って来ていた。月のない夜だというのに目敏く見つけるとは、やはり獣なみに視力がいい。
胡母班は、チッと舌打ちし、残っていた鉄蒺藜をぜんぶばらまいた。そして、丈の高い草むらに飛び込み、身をかがめながら風のごとく疾走した。
齢四十をこえたとはいえ、胡母班は首都警備を任される勇猛の士である。ほんの目と鼻の先の渡し場までなら、騎兵から逃げおおせる体力の自信はあった。
「どこだ、胡母班! 我こそは顔良! 姿を現して、我が槍の餌食となれぇい!」
(声で居場所を知らせてくれるとは、迂闊な奴)
胡母班は、一瞬だけ立ち止まって草むらから顔を見せると、声がした暗闇の方角めがけて、ビュッと短剣を投擲した。
「うわっ」という驚きの声が夜の闇に響き、その直後、馬の巨体が倒れる音がした。顔良という武将には当たらなかったが、騎乗していた馬には命中したようだ。部下の兵たちが慌てて下馬し、地面に投げ出された顔良を助け起こしている。
今のうちだ、と思った胡母班は全力で走り、やがて黄河のほとりにたどり着いた。
忙しなく首を動かし、渡し場の舟を探す。深夜なので水夫は眠っているだろうが、舟を奪ってでも南岸へ渡るつもりである。
しかし、ここで不測の事態が起きた。
「舟が……ない」
夜風の中にかすかに残る焦げ臭いにおい。河辺に散乱する焼けた木の破片。つい先刻まで、顔良配下の兵がここにいて、舟をことごとく焼いたのであろう。
(顔良とやらの迂闊さを笑ったが、本当の間抜けは俺であったわ)
胡母班は、思わず天を仰いだ。
昨夕、洛陽方面から河内郡へ入るため黄河を渡った際には何事も起きなかった。黄河南岸の地域から帰り、陰脩惨殺の報をもたらした司馬家の食客も、つい数刻前にこの渡し場に降り立った。その時も、渡し場に異変はなかったと聞いている。そのためすっかり油断していたが、思慮が浅そうな顔良とて、胡母班が黄河の南へ逃れようとすることぐらいは考えたら分かるはずである。遅かれ早かれ渡し場を封鎖すべきだと気づくのは疑いないことだった。顔良がここに待ち伏せの兵を置こうとまでは思いつかなかっただけ、不幸中の幸いというものである。
こんな事態に陥ることぐらい、経験豊かな武人である胡母班なら、常ならば想像できたはずだ。度重なる不測の事態や、義兄王匡の悪政の噂などで心がかき乱され、冷静な判断力を失っていたようである。
(どんどんと悪い方向へ向かっている。俺の頭脳や判断力も、雑念に邪魔されて、上手いこと働かぬ。完全に焼きが回ってしまっている。まるで、天が我が滅亡を望んでいるかのような……)
ふと異様な気配に気づき、全身に鳥肌が立った。
岸辺に、自分以外の誰かがいる。
袁紹軍の新たな討ち手か――と思い、気配がした右の方角に鋭い眼光を向けると、役人ふうの服装をした若い男がそこにいた。
何の感情も持っていないような、生気のない顔で、こちらを見つめている。
数日前、蔡邕と屋敷で語らっていた時にも、庭から胡母班を見ていた人物だった。
その男の顔に、胡母班は見覚えがあった。冥府で泰山府君に近侍していた冥吏のひとりである。その男は、死にゆく者たちの名が記された帳簿をいつも持ち歩いていた。
「あの時は、気のせいだと自分に言い聞かせていたが……。やはり、あんただったか。その手に持つ死人の帳簿に、この俺の名が載っているんだな」
冥吏は石のように無表情。何も答えない。
しかし、彼の右肩の上にひとつ、左肩の上にふたつ、よく見知った人間の面貌が暗闇から薄っすらと浮かび上がると、胡母班は全てを察して顔を強張らせた。
「陰脩殿、呉脩殿、王瓌殿……」
友人たちの目は虚ろで光なく、血の気は失せている。それは紛れもない死人の顔であった。武人の王瓌は最後まで頑強に戦い抜いて死んだのか、左目を失い、額や頬に無数の傷があった。
五人の使者のうち、胡母班と韓融以外は、早々に袁紹か袁術に殺されてしまったのだ。冥吏はその魂を回収するために現れた。そして、胡母班のことも――。
「ふっ……ふふふ……ふふふふふふ……」
急に笑いが込み上げてきた。止めようと思っても、止まらない。
ひとの死とは、実に簡単で、滑稽なほど軽々しいものだ――我が子たちが何の意味もなく愚かしい運命の悪戯によって続々と死んでいった時、そう痛感したはずだった。しかし、いざ自分の死の順番が巡ってくると、冷静ではいられない己がいる。あれだけ義だの侠だのと声高に叫び、死後の世界など恐くはないと虚勢を張っていたのに、
――本当に、これっぽっちの人生で終わりなのか?
という凄まじく強い未練が、急激に心の中で噴き出してきたのである。
そんな自分の往生際の悪さが、おかしくて仕方がなく、我ながら哀れで、笑ってしまっていたのだ。
(だが、ここで立ちすくんでいたら、後ろから追って来る顔良とやらに首をとられるだけだ。どうせ死ぬにしても、できる限り足掻いて、先延ばししてやる。天よ、ほんの少しでいい……。失望に塗れたこのくそったれな世界を、ほんの少しだけでいいから我が手で変えさせてくれ)
そう強く願う。胡母班は、自分の惨めさを自覚してもなお、最後の最後まで諦めるつもりはなかった。絶望の海に溺れていようが、助からないと知っていようが、無様に手と足を動かし続ける。子供たちのためだった。子供とは、十年前に逝った我が子らであり、長安の帝であり、名もなき孤児たちであり、今日会っただけの司馬懿であり、そして父の帰りを待つふたりの息子のことである。
(十歳の帝は、俺をいつまでも懐かしく思ってくれるだろうか。いや、幼少期のわずかな間だけ執金吾をつとめた男のことなど、大人になってしまえば、古びた思い出の一部になるだけであろう。十二歳の司馬懿も、数年もすれば、一度会っただけの父の旧友をすっかり忘れるに相違ない。故郷の我が子たちにいたっては、何年も自分たちを捨て置いている父を怨んでさえいるだろう)
それでも、と胡母班は思った。
それでも……この国の子供たちの未来を少しでも明るくするため、この命を使いたい。孤児にならず、自分の故郷で親と平和に暮らせる、そんなささやかな幸福を当たり前にするため、群雄たちの無益な争乱を止めねばならない。それが、亡き子らへの償いともなるはずだ――。
「冥吏よ。我が魂の回収、いましばし待て」
胡母班は、牙を剥くように凄絶に笑いながらそう怒鳴ると、ヤッと短く叫んで、滔々と流れる黄河の水に飛び込んだ。
その直後、胡母班がさっきまで踏んでいた地面に、顔良が放った矢が突き刺さった。
「おのれ! 大河に身を投げたか! ここに待ち伏せの兵を配置しておくべきであったわ!」
部下の馬に乗り換えて追って来た顔良が、黄河のほとりで馬を停止させ、歯噛みして悔しがる。その時にはすでに、冥吏もどこかへ去っていた。
「あともう少しで、冥府帰りの胡母班を冥府に永住させてやることができたのに。残念無念じゃわい」
「されど、入水したまま浮かび上がって来ません。すでに溺死したのでは?」
部下のひとりがそう指摘したが、顔良は首を荒々しく振り、「さる筋からの情報によると――」と言った。
「胡母班という男は、泰山府君の手紙を河伯に届け、その礼として河伯から青絹の履を授かったという。あの履には、昼間に我が隊の矢を弾いたように、不思議な力がある。恐らくは河伯の加護を受け、無事に対岸まで泳ぎきる自信があるゆえ、大河に身を投げたのであろう。そんな大胆なことをやってのける度胸はあるまいとたかをくくっていたが、胡母班という男を少々侮りすぎていたようだ」
「この大河を泳ぎきるだなんて、そんな馬鹿な……」
「まあ、いい。奴はしょせん、自ら死に向かって疾走しているだけに過ぎん。命がけの任務は徒労に終わるのだ。哀れだが、これが奴の運命よ」
その翌日――鶏鳴の刻限、胡母班は何時間も潜っていた水中から浮かび上がり、黄河南岸の土を踏みしめていた。
青い履をはいた足は濡れていない。衣服も水滴ひとつついておらず、懐にしまっている詔書も無事だった。黄河に身を投じた瞬間、光り輝く大きな泡のようなものが胡母班の体を包み込み、大河の急流に流されないように守ってくれたのである。
胡母班は、冥府の神の泰山府君と、最悪なかたちで絶交している。娘婿である黄河の神がどこまで自分を助けてくれるか心配だったが、どうやらあの気のいい神は今でも胡母班に親しみを覚えてくれていたらしい。
「河伯よ……感謝する」
恭しく黄河に一礼すると、胡母班は、袁術軍の偵察兵が近くにいないか警戒しながら走りだした。
兗州泰山郡までの途次、反董卓の諸将の陣営をいくつも通過する。袁紹は恐らく「董卓の使者の口上に耳を傾けてはならぬ。見つけ次第、抹殺すべし」と下知を出しているであろう。
言うまでもないことだが、各地の諸将は董卓を憎んでいる。胡母班が和平を説いても、応じる可能性は非常に低い。
その一方で、彼らは袁紹の家来というわけでもない。良識ある武将ならば、天子の近臣に危害を加え、わざわざ汚名を背負う愚行は犯したくないはずである。袁兄弟の軍勢以外は、積極的に胡母班の行方を捜すとは考えにくい。
しかし、胡母班自らが彼らの陣営に飛び込めば、どうなるか。きっと、名門袁家の威光に気兼ねして、捕縛したうえで袁紹か袁術のもとへ身柄を護送するだろう。泰山郡に無事たどり着くまでは、どこの勢力の軍団とも遭遇すべきではない。胡母班は走りながらそう考えた。
(だが……待てよ。兗州陳留郡の酸棗には、張邈の軍が駐屯していると聞く。彼は、若いころ俺とともに「八廚」と称賛された義侠の男。泰山郡に入る前に、張邈の陣を訪れるのはどうだろう? 張邈を説得できれば、連合軍から離脱者をひとり増やせる)
ふとそんな期待が脳裏をよぎったが、それは危険すぎる賭けだ、とすぐに思い直した。
張邈は袁紹との親交が深い。連合軍結成以降、両者に亀裂が生じているという噂を耳にしたことがあるものの、本当かどうか分からない。のこのこ訪ねていって、捕縛されてしまったら万事休すである。
(いずれにしても、京師への帰路は、復讐に燃える袁兄弟の軍勢によって塞がれているはずだ。帝には申し訳ないが……生きて長安に帰れる望みは薄い。どうせ死ぬのならば、せめてひとりぐらいは、確実に連合軍から離脱させたい。やはりここは、俺と一心同体の義兄と真っ先に会うべきだ)
死ぬ前にひと目でもいいから妻子や老母に会っておきたいという私心も混ざってはいたが――胡母班はそう決断した。関東の諸将の軍が行き交う危険地帯を慎重に進み、時には一か所に二、三日隠れるなどして、十数日かけて兗州泰山郡にたどり着いた。
だが、彼の旅は、そこで唐突に幕切れとなったのである。
彼は、故郷の土を踏んですぐに王匡の軍勢に取り囲まれ、拘束されてしまったのだ。