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動揺

 孝敬里こうけいりにたどり着いたころには、あたりは夕闇に包まれていた。


 野良仕事の帰りの里人に司馬しば邸への道を尋ねると、その男は見知らぬ旅人に警戒しながらもおどおどした口調で教えてくれた。


(すれ違う里人の多くが、暗い表情をしている。それに、何となくピリピリしているような……)


 河内郡かだいぐんは反董卓(とうたく)連合軍の最前線である。戦乱に巻き込まれる可能性が極めて高い。それゆえ民たちも緊張しているのだろう。


 だが、それだけが理由ではないような気もする。よそ者の胡母班こぼはんを見つめる目に、やや過剰すぎるほどのおびえの色が含まれているように感じられたからだ。この種の怯えた目を持つ民が暮らす地域の領主は、得てして不当な搾取さくしゅや悪政を行っている場合が多い。


(もしや俺の義兄が――いや、まさかな。ひとに施しをして、自分は素寒貧すかんぴんでも笑っているような義侠ぎきょうの人が、悪い政治をするわけがない)


 ふとよぎった嫌な予感を打ち消すと、胡母班は急ぎ足で司馬家に向かった。






(むっ。これはいったい……)


 司馬邸の門前に立った胡母班は、眉をひそめ、当惑顔で立ち止まった。


 二十歳ぐらいの長身の若者が、数人の下男たちにきびきびと指示を与え、荷台に家財道具を積み込ませていたのである。


 しばしその様子を見つめていると、長身の若者が背後の気配に気づき、振り返って「やや。これはこれは……」と驚きの声をあげた。


「胡母班様ではございませぬか。おひさしゅうございます」


 さすがは名士の子息というべきか、長身の若者は非常に礼儀正しい。忙しくしている最中に突然あらわれた来訪者に対しても、うやうやしい態度であいさつをした。


「貴殿は……おお、よく見れば、司馬防しばぼう殿のご長男の司馬朗しばろう殿ではないか。ずいぶんとたくまく成長したものだ。それで……この荷造りはいったい?」


 日没の時間帯に荷造りを急いでいるのである。夜逃げをするつもりに決まっている。しかし、ここにしばしかくまってもらおうと決めこんでいた胡母班は、そう問わずにはいられなかった。当然、司馬朗からは「夜逃げするのです」と返ってきた。


「河内郡は京師けいしから近く、洛陽に攻め上らんとする反董卓の軍勢がこの地に集結しつつあります。義兵を名乗っていても、連合軍などしょせんは寄せ集め。各地から集まった将軍たちの兵は、他人の土地で勝手気ままな略奪を行うはずです。それゆえ、道路がまだ通じているうちに別の土地へ移住しようと思うのです」


「なるほど、そういうことであったか……。しかし、河内郡を治めているのは、我が義兄の王匡おうきょうだ。あの人が健在ならば、関東の諸兵が集結しても、自領を好き勝手させぬはず。まさか……死んだということはあるまいな?」


 王匡の旗がその居城にひるがえっていなかったのは、董卓とうたく軍との戦で討ち死にしたか、味方の袁軍に裏切られて斬首されたからでは――そう案じていた胡母班は、恐るおそるそう尋ねた。


 だが、司馬朗から返ってきた答えは、予想だにしていないものであった。


「王匡様はいま、河内郡にはいません。募兵のため泰山郡たいざんぐんに帰っています」


「えっ」


 胡母班は驚きのあまり絶句した。


 出立した時にはすぐに会えると思っていた、信頼する義兄は、洛陽から遥か千四百里先の故郷にいるという。しかも、他国の兵が続々と集いつつあるこのような時期に自領から離れるとは……。


「てっきり袁紹えんしょう袁術えんじゅつが味方の城を奪ったのだと思っていたが――義兄の不在の城を守るため、隰城しつじょうに兵を入れていたのか」


「ええ。いくら寄せ集めといっても、敵が間近にいる最前線で同士討ちを始めるほどまでには、連合軍もまだぐちゃぐちゃになってはいません。隰城に駐屯しているのは、袁紹様配下の武将だと聞いています」


「チッ……」


 思わず舌打ちしてしまっていた。義兄の王匡が太守をつとめる地ならば、さほどの危険はないと高をくくっていただけに、一番遭遇したくない袁紹の軍勢が出張ってきていると知って、動揺を隠せなかった。しかも、袁紹は、董卓の使者の存在をすでに知っていて、胡母班らの命を狙っているのだ。


(運命というやつは、どこまでも人間を翻弄しやがる。そんなにも楽しいか? 俺が苦しむのを見るのが)


 心中怒る胡母班の耳の奥では、例の雷のような笑い声と手を叩く音が、また鳴り響いていた。


「……だが、義兄も義兄だ。募兵のためとはいえ、自領が味方の兵によって踏み荒らされようとしている時に、領民を放り出して故郷へ帰るとは。よほど兵力が足らず、焦っているのだろうか。賢い義兄らしくもない……」


 胡母班が義兄、義兄と王匡を話題にするたび、司馬朗は何か言いたそうな顔をしていたが、興奮している胡母班はそれに気づけなかった。


 しかし、時を置かずして無法地帯になるであろう領主不在の土地から逃れたがっている司馬朗の気持ちは、痛いほどよく分かる。


「どうやら俺は悪い時期に来てしまったようだな。荷造りの邪魔になるといけない。俺はこれにて失礼する。義兄に会いに行かねば」


 そう言い、自分の危機的状況を告げぬまま、足早に立ち去ろうとした。


 だが、聡明な司馬朗は、長安にいるはずの首都警備の長官がこんな戦場の近くに来ているのはよほどの理由であろうと察し、「お待ちください」と慌てて呼び止めた。


「私はこれから里の古老たちのもとへ赴き、共に移住しようと勧めるつもりです。もう何度もこの地は危険だと説いているのですが、みな故郷から離れたがらず……。結局、予定よりも一か月遅れてしまいました。私が最後の説得に行っている間、どうぞ我が屋敷で食事でもしていってください。弟に世話をさせますので」


「しかし――」


「父のご友人をもてなすことなく門前払いしたとあっては、あとあと私が父に叱られます。少しでもいいので休んでいってください。夜逃げ前なので、たいしたものはお出しできませんが」


「そうか……。では、お言葉に甘えさせてもらおう。迷惑をかけてすまぬ」


 迷いつつも、胡母班はそう言ってうなずいた。


 実は朝から何も食べていないのだ。袁紹軍から逃げ切るには、腹ごしらえをして、力をつける必要があった。

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