使命
話は、約一か月前まで遡る――。
董卓が都を長安に遷して間もない、夏のある日の夕刻。
執金吾の胡母班が自邸に戻ると、左中郎将の蔡邕が来客していた。
「蔡邕殿、お待たせいたした。宮城の外を巡視していたゆえ、帰りが遅れたのだ」
居室で瞑目端座していた蔡邕に、胡母班はそう言って笑いかけ、「一献、いかがです」と、先日手に入れた桂酒をすすめた。半日ほど炎天下にいたため、武人のわりに秀麗な胡母班の顔は黒々と日焼けしている。
「……執金吾は、月に三度、宮城の外を巡視するのが定め。しかし、今月の巡視はすでに十度目じゃ。貴殿はいま、そんなことをやっている場合ではなかろう」
蔡邕は、ゆっくりと瞼を開けると、寂声でそう言った。何か含むところがある物言いである。暴君董卓にすら一目置かれている博学の大儒の顔には、苛立ちの色が滲んでいた。
胡母班は、(あの噂を知ったか)と察しつつも、「非常事態の発生を防ぐことも、執金吾の役目ですからな」と、とぼけた。
「長安遷都の混乱で物情騒然としているおりなので、巡回の数を増やしているのですよ。幼き帝の安全を守るため必要な――」
「その前に、貴殿の身の安全を守るべきであろう。忠義を尽くそうにも、死んでは元も子もない」
蔡邕は、温厚な彼にしては珍しく鋭い語気で、胡母班の言葉を遮った。そして、「恐るべき命令が下ろうとしている時に、何を呑気にかまえておられるのじゃ」と半ば叱るように言った。
「宮廷内で漏れ聞いた話によれば――董相国(董卓のこと)の要請で、明日にも反董卓連合軍の解散を命じる詔書が発せられ、五人の使者が関東の諸将のもとへ遣わされる。その使者の中に、貴殿の名があがっていた。まさか、そのことを知らぬのか」
「いや、俺も昨日知りました。他にも、大鴻臚の韓融殿、少府の陰脩殿、将作大匠の呉脩殿、越騎校尉の王瓌殿が使者に選ばれるとか。皆、漢王室のためならば命すら投げ出す忠臣でござるな」
「何をひとごとのように……。董相国の使者として関東へ赴けば、きっとただではすまぬぞ。相国は先日、袁紹殿の叔父の袁隗殿とその親族五十数人を処断した。連合軍の盟主となった袁紹殿への見せしめじゃ。身内を殺された袁紹殿の恨みは骨髄に徹しているはず……。和平の使者など、捕まり次第、片っ端から斬られるに相違ない。危険な任務を押しつけられる前に長安を脱して、故郷へ逃れなされ」
「なるほど。たしかに、危険極まりない任務だ。しかし――下野などしませんよ。俺はァ、ひとに『逃げろ』と言われるのが一番嫌いなんでね」
胡母班は、蔡邕に負けないぐらいの強い眼光で、二十歳近く年上の友人を見つめ返し、にべもなくそう答えた。
兗州泰山郡の人である胡母班は、若いころから仁義を重んじ、同州東平郡の張邈らとともに「八廚」と称された。「廚」とは、財貨を軽んじ、人を救済することをいう。つまり、胡母班は侠者である。己の命を省みず、弱きを助けることこそ、我が本懐としている。逃げろと言われれば、条件反射で反発心が湧き起こる性分だった。
「そもそも、主人の不吉を避ける霊鳥金吾の名を冠した、執金吾の官職にあるこの胡母班が、幼き帝を見捨てられるはずがない。今上帝には、兄君の弘農王のごとき末路だけは、絶対にたどっていただきたくないのです」
董卓は、大将軍何進が宦官の陰謀で横死したことを知るや、何進の元部下の袁紹らが復讐のため宦官を皆殺しにした直後の洛陽を占拠。胡母班の前任の執金吾であった丁原を呂布に殺させ、その軍を吸収した。さらに、在位わずか五か月の少帝劉弁を玉座から引きずりおろして弘農王に封じ、弟の陳留王劉協を皇位につけた。
それに対して袁紹ら諸将は、反董卓を唱え、山東で決起。しかし、それが弘農王劉弁にとってはさらなる悲運の種となった。先帝が連合軍と結びつくことを危惧した董卓は、弘農王を毒殺したのだ。享年十八。長安遷都が強行される直前、今年の正月に起きた悲劇である。
「董卓は、遷都後も洛陽郊外の畢圭苑に布陣し、連合軍の侵攻にそなえているが、あの怪物は思いのほか気の弱いところがある。戦況が悪化して追いつめられたら、どんな暴挙に出るか分からない。『漢の皇帝など我が重荷でしかない。地上から消してしまえ』とヤケになり、帝を弑逆しかねぬ。その時、俺が執金吾の官職を棄てていれば、誰が帝をお守りするというのです。俺はもう二度と『守れなかった』という後悔はしたくない……」
そう語る胡母班の表情は、だんだんと暗く沈んだものになっていた。
この任侠の武人は、子供に弱い。董卓の独裁政権に反発し、袁紹や袁術、曹操といった将が次々と都を脱出する中、彼が朝廷にとどまりつづけたのは、ひとえに十歳の帝の身を案じたからである。
また、旧都洛陽から長安への強制移住の混乱の中で、両親とはぐれた庶民の子供たちが大勢いる。そんな子供らを保護しては、親を探してやり、見つからなければ、養子先や奉公先を探すなど、子供たちが奴隷市の商品にならぬよう腐心していた。胡母班が頻繁に巡回へ出ている理由のひとつには、こういった孤児救済事業を私費で行っていることもあげられた。
本人は「首都の治安維持のためだ」と言っているが、それだけではないことを蔡邕は知っている。出身の郡は違うものの、同じ兗州人のため、蔡邕は「冥府帰りの胡母班」の噂を聞いたことがあるからだ。
胡母班は十年前、大勢いた我が子を一年足らずの間にほとんど死なせてしまった。いま生きているのは、十二歳と十一歳の息子ふたりだけである。そのことと、彼が同じ時期に経験した奇妙なできごとには、深い関わりがあるという。その噂を知っていたからこそ、
「貴殿が言う後悔とは、弘農王を守れなかったことか? それとも、続々と死んでいく我が子を守れなかったことか?」
と、蔡邕は危うく訊きそうになってしまった。しかし、良識ある大儒は、喉まで出かけたその言葉を呑み込んだ。
怪力乱神を語らず――人間の理解を超越した現象を軽々しく語るべきではないと孔子は諌めている。それに、漢王室の恩を受けた多くの臣が董卓を恐れて逃れる中、共に都にとどまって帝に近侍している同志の暗い過去をほじくり返し、その心を傷つけるような真似はしたくなかった。
「貴殿の忠誠心は見上げたものだが……。さっきも言ったように、死んでしまっては元も子もない。首と胴が離れれば、漢に忠義を尽くすこともできぬのだぞ」
蔡邕は、やや間をおいてそう言い、逃げるよう再度すすめた。
「貴殿は幸い、妻子を故郷に残している。長安を脱出しても、家族が殺される心配はない。妻と子のもとへ帰り、泰山郡にて好機到来を待つがいい」
「好機到来というのは、袁紹が董卓を討つことですか? 悪いですが、俺はァ、あの人をいまいち信用できない。もちろん、反董卓連合軍の諸将の中には、尊皇の志を持つ者は存在します。しかし、盟主の袁紹は、俺が見るところ偽善者だ」
胡母班は、威風堂々たる袁紹の風貌を思い浮かべつつ、吐き捨てるように言った。
袁家は、四代にわたって三公を輩出した名族である。袁紹本人も、へりくだった態度で士人たちに接し、英雄の風格があったため、連合軍の盟主に推戴されるほどその名声は高かった。
だが、胡母班は、あの男に胡散臭いものを感じていた。天下の諸人は袁紹の見てくれの良さに騙され、彼の本質を見誤っているような気がするのだ。今日、董卓が朝廷を乗っ取るに至ったのは、もとをただせば袁紹が元凶であると彼は考えていた。
「袁紹は、偽善者なうえに心が狭い。董卓のやったことを全て否定したがっている。董卓が玉座に据えた今上帝の存在すら認めておらぬやも……。
万が一、袁紹の軍勢が長安に攻め込めば、玉体が安全かどうか怪しい。最悪、弘農王と同じように皇位と御命を奪われる恐れがある。蔡邕殿もそうは思われませんか?」
「そ、それは……」
「あの男の小さな器では、かつては志をともにした仲間の名士であっても、董卓の使者として姿を見せたら、けっして許さない。殺す可能性が高い。そう考えたゆえ、俺を止めているのでしょう? そんな狭量な男の憎しみが、董卓だけでなく、奴が即位させた今上帝にも向けられているとしたら――」
「…………」
蔡邕は沈黙した。胡母班の言わんとすることは分かる、と思ったからだ。
袁紹は思慮が浅い。いくら何進の仇であり、朝政を腐敗させた元凶だったとしても、宦官二千人を老若関係なく殺戮し、宮中を血に染めた彼の行動はやりすぎだ。しかも、その宮廷内の混乱に乗じて、董卓が洛陽を占拠してしまった。袁紹は董卓の暴政を糾弾しているが、現在の状況を作った責任の半分が己にあることを彼は理解していない。そんな浅慮さでは、怒りの刃で董卓の肥満体を貫いた後、その後ろにいる帝の小さな体も刺し、別の劉姓の人物を玉座に座らせようとする恐れがある。
「以前は袁紹殿に期待していたが……私もいまは失望しておる。それゆえ、彼が盟主をつとめる連合軍にも大きな望みは抱いておらぬ。むしろ、いらざる戦乱で村々が焼かれ、根無し草の民が増えるのではと案じている。尊皇の志ある関東の諸将は、できることなら宮廷に舞い戻って、我らとともに帝に近侍し、董相国の暴走を抑える手助けをしてもらいたいものよ……」
名家に対する遠慮から袁紹への批判を避けていた蔡邕も、胡母班の率直な言に引きずられ、苦しげな声で本音をとうとう吐露した。
胡母班はすかさず、「そう! 失望! 何進しかり! 董卓しかり! 袁紹しかり! 世を変えるだけの力を持っているはずなのに、その強大な力を己の野心のためにしか使わぬ! 奴らの体たらくには失望させられてばかりだ! こんなことだから乱世が終わらず、流民や孤児の発生が後を絶たぬのです! 腹が立つ!」と吠えた。そして、激烈たる声をやや抑えて、さらに言葉を続けた。
「……だからこそ、この使者の役目には意味がある、と俺は思うのです。わずかばかりの可能性でも、俺が働くことによって、董卓――そして、その背後の帝に向けられた袁紹の怒りの刃をおさめさせることができるかも知れない。民衆を巻き込んだ危険な戦を止められるかも知れない。連合軍が解散してしまえば、袁紹ひとりでは戦えませんからな」
「だが……だが……あまりにも無謀な使命じゃ。私は貴殿を死なせとうない。貴殿の義兄の王匡殿からも、『妹婿のことをくれぐれもよろしく頼みます』と言われている。むざむざと死地に飛び込ませることなど……」
「蔡邕殿の心遣いには感謝しています。ですが、帝をお守りするのが我が役目。少しでも可能性があるのならば、幼い帝のためにこの身を死地に置くことなど厭いませぬ。それに……冥府に行く覚悟でのぞめば、もしかしたら活路を見いだせるやも知れません」
「冥府――じゃと?」
縁起でもないことを、と言いかけて、蔡邕は押し黙った。
胡母班が、蔡邕の背後にある窓に視線を急に向け、幽鬼を目撃したかのようなひどく強張った顔をしたからである。
何者かが盗み聞きしているのか、と思って蔡邕は振り向いた。
だが、外には誰もいなかった。