余談
以下は、余談である。
反董卓連合軍を解散させるべく関東に遣わされた韓融、陰脩、胡母班、呉脩、王瓌のうち死を免れたのは、徳望高き老人、韓融だけだった。あとの四人は、袁術や、袁紹の指示を受けた王匡によって殺された。
この勅使殺害は、思わぬかたちで、袁氏の運命を左右することとなる。
天下の名士たちは、人材発掘の名手であった陰脩や、八廚と称賛された胡母班などに対して、我らは共に漢の臣下であるという強い連帯意識を持っていた。
そんな同志たちが袁兄弟によって殺されたと知るや、
――名門の袁家にはこれまで敬意を払ってきたが……躊躇いもなく漢の忠臣を討つとは。
と、彼らは強い衝撃を受けたのだ。偽善の化けの皮が剥がれた、といっていい。
心ある名士たちの多くが憤り、失望した。「袁家だけが天下の盟主ではあるまい」という認識が、彼らの中に芽生え始めた。
特に、陰脩と交流のあった名士の中に優れた人物が数多いたことが、袁家には大きな災いとなった。
早々に袁紹に見切りをつけて曹操のもとへ走った荀彧。
のちのち曹操と合流する荀攸と鍾繇。
いずれも、陰脩によって見出された賢者たちだった。
陰脩の抜擢を受けて世に出た者の中で、曹操を選ばず袁紹陣営についたのは郭図ぐらいである。
彼らは、曹操と袁紹の天下分け目の官渡決戦へと歴史が動いていく中、曹操のため大いに智を働かせることとなる。
王匡もまた、己の非道の報いを受ける運命にあった。
当初から結束力が薄弱だった反董卓連合軍は、やがて仲間同士で殺し合い、味方の領地を掠め取るようになり、脆くも瓦解した。
その混乱の中で、胡母班の遺族は、王匡への復讐を計画した。曹操の手を借りてこれを追いつめ、ついに王匡を滅ぼしたのである。
ちなみに、王匡にとって頼みの綱だった袁紹だが、窮地の彼を助けようとした形跡がない。そのころ、袁紹は、胡母班らを殺害したことで満足してしまったのか、董卓への復讐よりも自領の拡大に没頭するようになっており、王匡のような小さな駒のことなどすっかり忘れてしまっていたらしい。
哀れな王匡がいつの時点で討たれたのか、史書は記していない。死没地もよく分からず、領地の河内郡だったのか、それとも故郷のある兗州だったのかすら不明である。
ただ、そのあっけない最期の時、不思議なことがあった。
王匡は、年少で初陣を飾ったふたりの甥――胡母班の息子たちと曹操の軍勢に追撃され、黄河の支流まで追いつめられた。
(こんなところで死ぬわけには……)
王匡は、鎧を脱ぎ捨てて、川に飛び込んだ。
泳ぎは子供の頃から得意であったし、胡母班から奪った青絹の履をはいていたため、対岸まで逃げ切る自信があったのである。
だが、水中に入った途端、両足が何かに引っ張られた。たちまち沈み、そのまま浮上してこなかった。
曹操軍は、王匡の水死体を探したが、発見できなかったという。
これで、語ることは本当に尽きた。
が、余談ついでに、非業の死を遂げて史書にも事績がほとんど載っていない胡母班という人物の冥府訪問伝説がいかに世に伝えられたかについて、最後に話しておきたい。
冥府帰りの胡母班の伝説は、この物語の冒頭で語ったように、中国で二番目に古い志怪小説集『捜神記』に詳細が載っている。
作者である東晋の干宝は、何を参照してこの奇怪な物語を記したのか。
その問いには、すぐに答えられる。
『列異伝』――魏文帝曹丕が著したとされる中国最古の志怪小説集である。
この書の大半は今日失われており、逸文も五十種しか存在しない。しかし、その数少ない逸文によって、胡母班伝説が同書に載っていたらしいことが辛うじて確認できる。
志怪小説の源流たる『列異伝』のあとをついで『捜神記』を書いた干宝は、魏王朝嫌いだったようだが、曹丕の著作の影響は多分に受けており、『列異伝』逸文五十のうち十九の物語が『捜神記』でも語られ、曹丕が収集したであろう怪異譚の一部を完全な形で読める。胡母班伝説もその中にある。
胡母班が死んだ年、曹丕は四歳だった。両者に直接な面識はない。恐らく彼は、魏文帝四友のひとりである司馬懿から、
――昔、冥府を訪れたと語る不思議な男と出会いました。
と聞かされ、『列異伝』に書きとどめたのであろう。
己の忠節を友人の蔡邕の手で歴史書に記録してもらう、という胡母班の生前の願いは、叶えられることはなかった。
だが、その代わり、死の旅の途中にたまたま司馬家に立ち寄ったことで、冥界訪問譚の主人公としてその名を残すこととなったのである。
冥府の永遠の住人となった本人が、あとあとやって来た曹丕や司馬懿にその事実を聞かされて喜んだのかは、筆者にも分からない。しかし、物事をいいほうにとらえたがるおおらかなこの男のことなので、
「わが国で最初の志怪小説というものに載ったのなら、俺は中華最古の冥府訪問譚の主人公ということになる。『一番』ということでは、最初に皇帝になった秦の始皇帝と仲間だ。後悔の多い人生であったが、そういうかたちで花を添えてもらえたのならば……まあ、悪くはあるまいよ」
微笑みながらそう言い、曹丕と司馬懿をねぎらったのではないかとも想像できるのだが、どうであろうか。
了