8.好きな人
碧さんは吹っ切れたのか、帰宅するとまた仕事の話をしてくれるようになった。
「最近アフレコ慣れてきたからか、演技がパターン化してた気がする。もっと役のことを考えて理解して、セリフに書いてあるもっと奥のことを理解してやらないと」
前よりも真摯で、前よりも生き生きとしている気がする。
どんなに少ないセリフでも、台本を読んで考えている時間が増えた。
声優としての碧さんの黎明期。傍で応援することができて嬉しい。このまま帰れなくてもいいような、そんな気の迷いを起こしてしまいそうになる。
今日の碧さんは、いつも以上に長いこと台本を読みふけっていた。
深夜をまわっても、布団に潜って三色ボールペン片手にずっと台本を見ている。
「あ、ごめん。電気消していいよ」
寝ようとした俺に気づき、ケータイのライトをつけようとしている。目が悪くなりそうだ。
「いいですよ、まだ電気つけときます。でも寝なくていいんですか?」
「うん、もうちょっとだけ。今回の役、気持ち作るの大変でさ」
碧さんが台本を置いて起き上がった。俺も並べた寝袋の上に座り込む。
「どんな話なんです?」
「パニック映画。俺は人類滅亡の危機の中で、恋人をどうにか助けようとする役なんだけど」
ふと俺を見つめて、からかうように笑う。
「言っとくけど、恋人って男じゃないよ。普通に女の子」
「わかってますよ。でもそんなに悩んでるってことは、重要な役なんですね」
「映画全体からすると、出番は多くないけどね。けど、愛を囁いたりするのとか意外と初めてなんだ。BLだと俺って受けじゃない? だから恋愛に対しても受け身で、好きだとか愛してるとか言われる側だったから。どう言ったらいいのかわかんなくて」
碧さんがそっと目を伏せた。
「俺、人のこと……そういう意味で好きになったことなくてさ。女にも男にも恋愛的に興味ないっていうか。だから恋をしたり、大切な人がいる役の気持ちがよくわからなくて。恋愛するのも役者には必要だって聞くけど、そのためだけに恋愛するのも違うというか。ってか、無理に誰かを好きになれるわけないし」
一呼吸置いて、碧さんがゆっくり、でもはっきり呟く。
「でも最近、わかってきた気がする」
胸の奥が小さく疼いた。
13年後も碧さんは独身だ。だからといって、こんな素敵な人にずっと彼女がいないわけがない。
学生の頃とは比べ物にならない、魅力的な女性とたくさん出会える仕事をしているんだ。恋心が芽生えないわけがないだろう。
「誰か好きな人、できたんですか?」
聞きたくない。けど、聞かずにもいられない。
碧さんは膝に頬杖をつくと、ふふんと口角を上げてみせた。
「誰だと思う?」
「ぼ、僕の知ってる人なんですか?」
「さあ、どうだろうね」
この時点で碧さんと共演してる女性声優って誰だ?
俺はガチ恋じゃないという理性は吹っ飛び、いろんな名前がグルグルと頭を駆け巡る。
「やっぱり今日はそろそろ寝ようかな。電気消すよ~」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください!」
電気と共に俺の問いかけもシャットアウトされてしまう。
碧さんの寝息が聞こえてきても、なかなか寝付けなかった。