7.胸騒ぎ
時は過ぎ、カレンダーは3月になった。
あれからSilk Roadを読んでる姿を見ないし、俺がバイトしてるコンビニに立ち読みに来ることもなくなった。
それだけならいいが、時々険しい顔で床を見つめていたり、話しかけてもぼんやりして気づいてくれないことも多い。
まだ落ち込んでいるんだろう。あまり思い詰めないといいけど。
今の俺にできることは、おいしいご飯を作って待っていることだけだ。
バイト帰りに、すっかり馴染みになったスーパーに立ち寄る。今夜はオムライスにしよう。ケチャップじゃなく、豪勢にホワイトソースだ。ミネストローネも作ろう。
食材の下ごしらえをして、碧さんの帰りを待つ。碧さんが帰って来る19時直前に作れば、あったかいのを食べてもらえる。
と思ったのに、すっかりオムライスとミネストローネができあがっても碧さんは帰ってこなかった。
遅くなるときは連絡をくれるのに、何度確認してもメールも着信もきていない。電車の遅延情報も出てないようだ。
事件? 事故? こういうとき、嫌な想像ばかりしてしまう。
最近悩んでたみたいだから、気晴らしにふらっとどこかに行きたくなった、とかならいいが……
どこかに。
最悪の事態が頭に浮かんで、瞬時に振り払った。
13年後の碧さんは生きているんだ。そんなことになるはずがない。
未来は変わらないのだから。絶対。
カタカタ、と座り込んだ床が揺れた。
反射的にローテーブルの下に潜り込むと、揺れが少し大きくなる。長い。
地震。3月。
いや、まだ2010年だ。大丈夫、大丈夫。
バクバクする心臓を宥めていると、揺れが収まった。
布団から出て、窓を開けに行く。深呼吸をしようと空を見上げると、月が雲に隠れた。胸が騒めく。
「碧さん……!」
スマホだけを引っ掴んで、部屋を飛び出した。
『お掛けになった電話は電波の届かないところにあるか、電源が』
走りながら何度電話してもこの調子。
今日はアフレコに持っていく鞄で出掛けていたはず。でもスタジオの場所なんてわからない。コンビニ、スーパー、カラオケ。思い当たる場所を捜すしかない。
碧さんの知り合いなんて俺にはわからないし、胸騒ぎがするというだけで所属事務所に連絡するのはオオゴトすぎる。そもそも取り合ってもらえないだろう。
それでももしかしたらと、事務所がある場所へ向かってみる。詳しくは知らないが、碧さんから最寄り駅は聞いたことがある。
とはいえ、東京で人捜しなんて無謀すぎる。夜のない東京は煌々と道行く人たちを照らしてはいるが、碧さんに似た金髪の人だけでもいくらでもいる。
碧さんを捜して歩き回って、連絡がないか数秒おきに確認して……全部空振り。
もう碧さんに会えないんじゃないかと、頭を駆け巡る。この時代に俺がいることが間違いなのだから。
繁華街から少し離れると、途端に暗くなった。夜の闇に飲まれてしまったら、今度こそ絶望的になる。
と、なぜか周りがほんのり明るくなった。見上げると、雲が流れて月が姿を見せている。
黒い空にぽっかりと黄色い穴が開いているようだ。今日は満月なのかもしれない。
月の手前で、何かの影がゆらりと動いた。
ビルの屋上に佇んでいる人影。一瞬きらりと輝いた髪が……
「まさか……っ!」
頭によぎった瞬間、駆け出していた。雑居ビルの外階段を駆け上がる。
頼むから、どうかそのままでいてくれ。お願いだから。
「碧さん!」
屋上に辿り着く寸前、声を張り上げた。
月明かりに照らされた影が、ビクッと震えて振り返るのが見える。
「綾介くん!? なんで、ここに」
碧さんが目を丸くしているのが見えたが、その問いになかなか答えられない。息切れと安堵と悲痛が喉をつかえる。
「早まらないでください」
なんとか声を絞り出し、碧さんの元へ駆け寄る。
呆然としている碧さんの両肩を掴んだ。震えてる……のは、俺の手だ。
「綾介くん?」
「生きてれば絶対にまたチャンスはあります。今辛くても明日まで、明後日まで耐えればきっと希望はあります。まだあなたの命は奪われていない。碧さんは生きなきゃいけない理由がある。だから」
「ま、待って。たぶん、なんか誤解してると思う」
「え……?」
冷静に碧さんの表情を見つめると、予想していたような悲壮感はそこになかった。
困惑してるけど、血色のよい肌が月明かりに照らされて、瞳は柔らかく緩んでいた。
「落ち着いて、ね。俺が自殺でもすると思った?」
「……しないんですか?」
「しないよ。逆になんでそう思ったの」
「オーディション落ちたの、悩んでいるようだったので」
「それで死んでたら、俺は命が100個あっても足りないよ。オーディションなんて落ちるのが当たり前なんだから。まあSilk Roadは原作好きだったから、ショックではあったけどさ。でもそれより、あれだけ浮かれた醜態晒した挙句ケンカまでしたのに不合格って、ばつが悪いったらないよね」
「そ、そうですか……」
体中の力が抜けて、碧さんにしがみついた両手がするりと滑り落ちる。へなへなと座り込んだ俺に、慌てて碧さんがしゃがみ込む。
「大丈夫? そんな心配してたの」
「だって碧さん、全然帰ってこないし連絡も取れなくて……」
「え、ウソ」
碧さんがポケットからケータイを取り出して、何度もボタンを押した。
「ごめん、収録の後電源つけるの忘れてた。今何時?」
「20時をだいぶ過ぎているかと」
「うっわ! そんな時間になってたの!? 俺ボーっとしてて。ホントごめん!」
何度も謝る碧さんに、俺は片手を振った。
「いいんです、俺が勝手に心配してただけなんで。とにかく、無事でいてくれてよかった」
「綾介くん……」
おーい! と男の声が聞こえた。振り返ると、スーツ姿の男性がこちらに歩いてくる。
「君島、まだいたのか? もう下も閉めるぞ」
「すみません。今帰ります」
ほら立って、と碧さんに引っ張り起こされる。
「俺のマネージャーさんなんだ」
「マネージャーさん!? なんで」
「このビル、うちの事務所だよ」
ここが!?
顔を上げると、マネージャーさんが「誰?」という視線を碧さんに向けている。
「彼氏です」
「はッ!? な、何言ってるんですか!」
でも驚いてるのは俺だけで、マネージャーさんは呆れた顔を浮かべた。
「ついに男好きキャラになったのか?」
「どうせ言われるなら乗っかっておこうかと思いまして」
碧さんがぺろりと舌を出した。なんだ、冗談か。そうに決まってるけど。
お疲れさまでしたとマネージャーさんに一礼して、碧さんが俺の手を取った。冷たい。
「帰ろうか、綾介くん。夕ご飯、まだ残ってる?」
「はい、もちろん。すぐ温め直します」
「じゃあ、急いで帰ろう。僕もお腹空いた」
カンカンと音を立てながら、鉄階段を碧さんと下りて行った。
アパートに帰り、温め直したオムライスとミネストローネを食べる。
上着も着ずに走り回った身体に、熱が戻ってきた。碧さんもあっという間に平らげてくれた。おかわり作っておくんだった。
「俺さ、悩んでたのは本当なんだよね」
食べ終わると、碧さんがぽつりと零す。
それはそうだろう。1時間か2時間かわからないが、帰ることも忘れてぼーっと夜空を見上げていたんだから。
「声優、辞めようかなって」
「え!?」
悩み事どころか、一足飛びに衝撃発言だ。
「もともと親には反対されててさ。俺高校出てすぐ養成所入っちゃったから、今でも『大学行け』って言われてんだよね」
「で、でも、碧さんまだハタチですよね。芸歴2年目じゃないですか。夢を諦めるには早すぎます」
「ダラダラ夢を追うより、早いとこ見切りをつけた方がいいって考え方もあるけど?」
「それにしたって早すぎます! 絶対続けた方がいいです!」
今碧さんが辞めてしまったら、スノードロップはどうなる!? 碧さん以外にブルームーンをやれる人なんていない!
「一生に一度の人生なんですから、本気でやり切ったと思えるまでやった方がいいです。人生いつ死ぬかわからないんですよ。もし夢を諦めて死んでしまったとして、碧さんは後悔しないんですか? 今際の際にもっとやっておけば良かったと思ったって遅いんですよ」
ヒートアップした俺に気圧されたのかドン引いたのか、碧さんが息を飲んだ。
「そっ、か……。そうだよね」
碧さんがキツく目を閉じた。少しして、パッと見開いた碧さんの瞳の奥には何かが燃えていた。
「ありがとう。もっと、本気で頑張ってみるよ」
「はい! きっともうすぐ良い結果が出ますから!」
「見てきたようなこと言うじゃん。信じちゃうよ~」
「信じてください!」
未来を知っているとは言えないけど、碧さんを応援したい気持ちは本物だ。気持ちは伝わっているはず。伝わっていてほしい。
「信じるよ」
澄んだ瞳が、俺をまっすぐ見つめてくる。
まだ一部にしか見つかっていない碧さんの声。このまま俺が独り占めしてしまいたい。
でも、そんなことはできない。碧さんの声は大勢の耳に届くようになり、あの日の俺を救ってくれるのだから。