13.さようなら
3月30日。
「冷蔵庫に数日分のご飯作ってありますから、温めて食べてくださいね」
バイトは辞めて、荷造りするものもないから、最終日は部屋の掃除とご飯の作り置きに専念した。
碧さんのアフレコは午前中だけ、午後はバイトを休んで掃除を手伝ってくれた。
「ゴミの日と分別方法はここに書いて貼っておきました。難しい掃除はしなくていいんで、とにかく使ったら片付けるようにしてください。あと、これ電子レンジで作れるレシピです。自炊が無理だとしても、せめてお惣菜を買うとかパックのご飯を……」
「わかったわかった。大丈夫だよ」
碧さんが呆れたように片手を振る。
「母親にもそこまで言われたことないよ。綾介くんは心配性だな」
「またすぐゴミ屋敷でお菓子食べる生活に戻らないか心配してるんですよ」
息子の一人暮らしを心配する母のような心境だ。未来でも碧さんが大病をしたと聞いたことはないから、きっと大丈夫ではあるはずだが。
彼女でもできれば安心だけど、でも誰かが作った料理を食べる碧さんを想像すると、ほんの少しだけ苦しくなる。
「そういえば、実家って東北だっけ? もう東京にも戻ってこないの?」
「そう、ですね。向こうで就職しようかと思いまして」
「じゃあ、しばらく会えないね」
2023年の俺はまだ就活も始めていない大学生で、就職するにしても地元に帰る予定はない。
けど、俺が13年後に帰ってしまえば碧さんと連絡を取ることはできなくなる。しばらく東京にはいないことにした方がいいいだろう。時が経てばそのうち、俺のことなんて忘れてしまう。
「寂しくなるね」
「ははっ、本当ですか~?」
「本当だよ」
冗談で流そうとしたのに、碧さんの顔は真剣だった。
「俺、一人でいて寂しいとか思わないタイプだからさ。なんであの日綾介くんを家に誘ったりしたのか、自分でもわかんなかった。でも俺のことなんて誰も見てないんじゃないかって、いつもどこかで思ってて。だから綾介くんが俺のことを知っててくれたの、嬉しかったんだと思う」
「碧さんにはファンの人たちがいるじゃないですか」
「腐女子の子たちはね。でも、あんまり実感ないっていうか。少なくとも男のファンは綾介くんが第一号だと思う」
ファン第一号。
そんな称号、しかも本人公認で……!
「綾介くんがいなかったら、Silk Road落ちたときホントに事務所辞めてたかもしれない。ブルームーンのオーディションも受けなかっただろうしね。ホント、キミには運命を変えられちゃったよ」
「いや、そんなことはないです! 俺が居ようが居まいが何も変わりませんよ」
「そんなことないよ」
静かに、碧さんの落ち着いた声が耳に、胸にじんわりと届いた。
碧さんの人生にほんの一瞬だけ通り過ぎることができたのなら、こんなに嬉しいことはない。
寂しいなんて言ってくれるのは今だけだ。
これから碧さんは大勢の人と出会って関わって、大勢の人に応援される。寂しくないように傍にいてくれる彼女だって、きっとすぐにできる。
♪~~
碧さんの着メロが鳴った。不安気な表情で俺を見る碧さんに、大丈夫だと頷いた。
小さく息を吸い込んで、二つ折りのガラケーを開く。
「お疲れさまです、君島です。……はい、はい」
大丈夫だとわかっているのに、自分のことのように心臓がバクバクする。胃が冷たくなってくる。
「はい……わかりました。ありがとうございます。また後程」
ピッと碧さんが通話ボタンを切った。
「どう、でした?」
つ……と碧さんの目尻から涙が零れ落ちた。
「碧さん!?」
「……合格だって」
はらはらと零れる涙を碧さんが袖で拭う。その両手を思わず掴んだ。握りしめた両手はとても冷たかった。
「おめでとうございます! よかったですね! ブルームーンですよね?」
「うん、ブルームーンだって。ありがとう」
泣き笑いする碧さんの三日月のような瞳から、まだとめどなく涙が溢れていた。自然と、碧さんの金色の髪を撫でてしまう。
「頑張りましたね」
「ううん……これからだよ。ここから頑張らないと」
子供のように泣きながら、碧さんは俺よりずっと大人だった。
役を掴み取ったとはいえ、スタートラインに立つ権利を与えられただけ。ここからブルームーンと共に歩んでいかなくてはならない。
その涙が喜びだけでないのは、彼がプロの声優だからだ。
「合格祝いにオムライス作ります! いっぱい食べてください」
泣き腫らして頬を真っ赤にさせながら、碧さんが笑った。
特大のオムライスにホワイトソースとビーフシチューを半々にかけた。バジルなんて乗っけちゃったりもする。
ジンジャエールで乾杯して、碧さんの合格を祝った。
スノードロップの話はもちろん、最近見た漫画やアニメを語り合っていると、まるで昔からの同級生みたいだ。
碧さんにさっきまでの涙は消えていた。笑い合うこの時間がずっと続けばいいのに。
なんてことは当然なく、空にはもう大きな満月が昇っている。
ブルームーンだ。
本当に新幹線に乗るわけでもないので見送りは断ろうとしたが、碧さんが駅までついて来てくれた。
俺が落っこちて碧さんに拾われた駅前の階段に向かう。
「ここで、大丈夫ですから」
階段を上ったところで、碧さんを振り返った。
「あっちに着いたらメールして。東北って俺行ったことないんだ。海とか近い? 写メ送ってよ」
「うちの方は海から遠くて……」
できない約束はしたくなくて、有耶無耶にしてしまう。もう俺から碧さんにメールすることは、絶対にない。碧さんからのメールも届かない。
「碧さん」
「なに?」
小さく吸い込んだ3月の空気は、まだ冷たい。
「これから先、日本に大変なことが起こって、自分はこんなことをしてていいのか、何かできることはないのかと悩むかもしれません」
「どうしたの、突然」
碧さんにしてみれば、訳がわからないだろう。
それでも最後だから、伝えないといけない。
「でも碧さんの声が力になって、その声に支えられる子が必ずいます。ブルームーンのお陰で、辛くても頑張れる子が絶対にいるんです。あなたの声には、力があります」
ブルームーンだけじゃない。
碧さんの名前を、声優という存在を知らないうちから、いろんなアニメを通して碧さんの声を聴いてきた。碧さんの声がいつも聴こえていたから、あの頃も、中学も高校も、大学生になった今だって、俺は生きてこれた。
あなたの声が、傍にいてくれたから。
「碧さんは絶対大人気の声優さんになります。良い作品に、良い役にたくさん出会えます。碧さんの声で育って、碧さんに憧れて声優になりたいと思う人がいっぱい出てきます。その分大変なことはたくさんあると思いますけど、俺はずっと……ずっと碧さんが」
滲んで見える碧さんが、俺に手を伸ばした。
その手が俺の頭に触れる。
「さっきのお返し。泣かないで。2度と会えないわけじゃないんだから」
「そう、ですね……」
会えないわけじゃない。
でも今度会うときは、碧さんはずっと遠くにいて、もう俺の手は届かない。肩を並べて歩くことはできない。
触れることも、触れてもらうことも、もうできない。
「これ、あげる」
碧さんがバッグから、手のひらサイズの紙を取り出した。
受け取ると、『魔法少女☆スノードロップ』のタイトルロゴが書かれたステッカーだ。黒いマジックでサインが入っている。
「オーディションのとき、記念にって貰ったんだ。非売品でまだ一般の人は誰も持ってないよ。内緒であげる」
「あ、ありがとうございます! それに、このサイン」
「俺サインまだあんまり書き慣れてなくて、ガッタガタだけど許してね」
筆記体をぎこちなく崩したような、碧さんのサイン。
13年後に使っているのは漢字を崩したものだから、この頃のとは変わっている。
「俺が売れたら、プレミア付くかもね」
「将来的には何百万でも買いたがる人がいますって。いくら積まれたって譲りませんけど!」
「ははっ、そうなったらいいけどね~」
放送前の非売品ステッカー、新人時代の碧さんサイン入り。
とてもじゃないがお金には換算できない。
大事に保管したいが、でも見えるところがいい。
スマホのクリアカバーを外して、中に挟むことにした。クリアブルーのカバーでうっすら青く染まった碧さんのサイン、これを見たらいつでも元気をもらえる気がする。
ほら、と掲げて見せると、碧さんが小さく笑った。
碧さんもいつか今日の日のことを、思い出してくれるだろうか。いや、忘れてくれた方がいい。
「それじゃ……そろそろ行きます」
「元気でね。スノードロップ、そっちでも放送するだろうから見てよ」
「絶対に見ます! 碧さんも、元気で」
ペコリと頭を下げると、碧さんが手を振ってくれた。俺が見えなくなるまで、大きく手を振って……
物陰に身を隠し、少し間をおいてからそっと覗く。まだ碧さんの姿があった。じっとこちらを見て、それから夜空を見上げた。
そして、階段を下りて行き、その姿は見えなくなった。
「さようなら、碧さん」
小さく呟くと、俺は再び駅のデッキへ出た。
夜空には青くはないブルームーンが輝いている。碧さんも、きっとこれを見上げていたんだろう。
さあ、ブルームーン。俺を13年後に連れて帰ってくれ。
…………。
何も起きない。
目を閉じて両手を広げ、それっぽく待って見ても何も起きない。
心の中で「ブルームーンの力よ! 我を未来へ運ぶのだ!」と呟いてみたところで、何も起きない。
どうしよう。無駄にウロウロと動き続けてしまう。これでは不審者だ。
そもそもブルームーンで帰れるというのは完全な推測だ。なんとなく思い込んでいただけで、確証はなかった。
まさかあんな涙の別れをして「やっぱり帰るの辞めました」と碧さんの元へは戻れない。
どうにかして、こっちの世界で生きて行くしかないのか!?
いやでも、スノードロップの続編は見たい。新人の碧さんも最高だったけど、2023年の碧さんの活躍も見たい。
「どうにかしてくれブルーム――あああッッ!!?」
ズルっと足が滑り、後ろにひっくり返って身体が打ち付けられる。
上ばかり見ていたから足が階段に向かっていたと気づかなかった!
階段を転げ落ちていく俺の頭上に、月が青く輝いていた。
これは……あのときと……同じ……?
・
・
・
「大丈夫ですかー?」
誰かの声が頭上から聞こえてくる。
全身の痛みに耐えながら、ゆっくり目を開けた。
「ゔ……」
俺を覗き込んでいたのは、マスクをした警察官だった。
「階段から落ちたんですね。救急車呼びましょうか?」
「かいだん、から……? っ! 今って何年ですか!?」
「え、い、今ですか? 2023年ですが」
飛び起きた俺に、たじろぎながら警察官が答えた。
にせんにじゅうさんねん……2023年!
「2023年! 8月31日ですか!?」
「そ、そうです。頭はハッキリしてるようですね。何かありましたら、声掛けてください」
そう言って、警察官はドン引きした様子で交番へ戻って行った。
帰って来たんだ。あの日の夜に。