香辛料と太陽の果実
「アトゥラタ。目を覚ませ。」
まぶたの内側に、やわらかい赤が滲む。
朝だ。
水を浴び、草を噛む。
父と、少しばかり談話を交え、そのうち、畑を耕す。
陽が、空の真ん中に来ると、いったん手を止める。
影の長さを見て、身丈の半分になったら、再び鍬を打つ。
そうしているうちに、陽が地平のうしろに隠れて、星が一つ見えたら、畑をあとにする。
小屋のかまどを熾し、鍋にミルクを注ぐ。
ぼこぼこ、と泡を立てるので、そこへ穀物と少しの肉を加える。
色が変わるまでよく混ぜたら、器に盛って、少し冷ましてから食べる。
食事を終え、星が百と見えるようになったら、扉と窓を閉め、やっと床に就くのだが。
父が、何かを話しに来た。
「これをやる。商からもらったものだ。」
私は、文字の入った紙切れを手渡された。
父は続ける。
「これを持って、明日、東の馬小屋へ行くといい。」
そう言って部屋を後にすると、父は酒を飲んで、そのまま寝てしまった。
私は、紙切れを枕元に置き、眠りについた。
・・・
「アトゥラタ。目を覚ませ。」
「…」
「アトゥラタ!もうすぐ、陽が真ん中に来るぞ。」
そうだった。
今日は、父に言われたとおり、東の馬小屋に向かうのだ。
急いで支度をすませ、出かけようとしたその時、父に腕を掴まれた。
「これを忘れるな。」
枕元に置いてあった紙切れを、父は胸に押し付けた。
「ありがとう。行ってきます。」
私は、父に向かって、深く頭を下げ、家をあとにした。
・・・
陽は、空の真ん中に来ている。
足が、砂だらけになるまで歩いたところ、遠くに道が見えた。
まるで背中に火がついたかのように、私は走り出した。
馬小屋に着くと、汗だくになった私を見て、馬乗りがこう言った。
「切符はあるか。」
私は、少しの沈黙と思考を挟み、手に持っていた紙切れを渡した。
「明日にはここへ帰ってくるように。」
無口な二人を乗せ、赤黒い馬は、遠くへと走り出した―――。
・・・
地平のうしろに陽が隠れ、十の星が見え始めた頃。
二人を乗せた馬は、石の門の前で脚を止めた。
「…降りろ。」
馬乗りは、吐息混じりの声で、そう私に告げた。
再び大地を踏み、石の門をくぐると、光に塗られた大きな町が、目の前に現れた。
眩しい、それどころか、歩く人々を見ることも難しい。
大きく口を開けて、呆然と立っていると、横から怪しい男がやってくる。
男が、私に手を出そうとしたその時、小娘の怒鳴り声が耳を突いた。
「てめえ、そいつに近づくな!」
豆鉄砲を食らった鳩の如く、男はその場を立ち去った。
すると、小娘は私を見上げて、説教を始めた。
「おまえ、そうやっていつも柱みたいにしてると、白蟻に食われるぞ。」
「今みたいに、おれが助けてやらなかったら、どうなってたか、危なっかしいやつ。」
そう言って小娘は立ち去ろうとしたが、私は思わず、声をかけてしまった。
「すまなかった。ところで、君はなんと言うのだね。」
小娘は立ち止まって、こちらを向くことなく、ただ答えた。
「ミナ。それが、おれの名前。」
私はこの時、不思議な感覚に浸っていた。
ミナ。その名前は、思考の中でこだまする。
・・・
人の影もなくなり、あたりには、僅かな灯だけが残っている。
宿代もないので、山の方へと道を歩いていると、見覚えのある姿が、窓からのぞいていた。
「なんだよ。」
ミナだ。不機嫌そうな顔をしながら、私を眺めている。
宿代がないのと、明日には帰ることを伝えると、ミナは静かに扉を開けた。
「おまえ、危なっかしいから。うちで大人しくしてろ。」
「でも、もし、おれに手を出したら、首をきってやるからな。」
口は悪いが、根は優しいのだろう。
私は謝罪の言葉を投げて、ミナの家に入った。
「おまえ、なんて言うんだ。」
私はアトゥラタ。そう伝えた。
「へぇ、芋っぽい名前。」
「もしかして、おまえ、田舎もんだろ。」
私が驚いた顔をすると、ミナは、くすくすと笑って、満足そうにこう言った。
「当たった!おまえ、バカだろ。ばーか。」
顔に考えが出やすいとは思っていたが、改めてこう言われると、悔しい。
眠くなってきた。
溜まった疲れが、どっと肩にのしかかると、みるみる意識が遠くなる。
ミナが何かを言った。
しかし、私にその言葉を聞く余力は残っていなかった。
暗闇が、まぶたを覆った。
・・・
気がつくと、私は大きな布の下敷きになっていた。
重い体を起こし、息を吸う。
すると、香辛料と肉の甘い香りが、撫でるように顔を通った。
しばらくして、私の名前を呼ぶ声がした。
どうやら、朝食を私に作ってくれていたらしい。
お互い顔を合わせることなく、食事を口へ運ぶ。
先に、ミナが料理を平らげた。
「いつまで食ってるんだ、牛のつもりか。」
ミナがそう言うので、私はこう返した。
「美味しい食べ物は、ゆっくり食べたほうが、長く幸福感を得られる。」
ミナは、顔を少し赤らめて、焦り気味に言った。
「幸せそうな牛だな、捌くのが惜しくなる!」
私は、返答を軽くあしらって、空になった器を返した。
私がミナの家を出ようとすると、奥の部屋から、呼び止める声が響く。
そうか、お礼を言っていないな、と気がつき、ミナに感謝の言葉を伝えた。
「うるさい、ばか。気をつけて行けよ。」
ミナがそう伝えて、部屋に戻ろうとした時、私は思わず、こう口走った。
「一緒に行かないか。」
その瞬間、私の声が反響する音を最後に、ぱたっ、と、辺りが静かになった。
まるで、時が止まったような、そんな感じがした。
「…いいけど。」
そうして、時が、動き出す。
私たちは、白い光に照らされた、太陽の町を歩くことにした―――。
・・・
「おじさん。これ、ください。」
ミナは、行く先々の店で、買い物を楽しんでいる。
気がつくと、私が背負っている布袋は、人の赤子と同じくらい、大きくなっていた。
ミナは、この町で、そこそこ顔が知れているらしく、
商たちは、新鮮な果物や野菜や肉を、桁一つ分、安くしてくれた。
「何か、食べたいものはあるか。」
ミナがそう聞くので、私は意気揚々と「肉の辛煮込」と答えた。
昔、母の住んでいた町で食べたことがあり、どうやら、この町にもあるらしい。
「…いいけど。でも、高いから、一人分しか頼めないよ。」
私はその言葉を聞いて、首を傾げた。
一人分しか頼めないのに、なぜ良しとするのか。
そう言うと、ミナは口を濁しながら、こう答えた。
「ばか、二人で半分を食べればいいだろ、それくらい考えればわかる。」
これには、私も目を大きく見開いて驚いた。
父も、母も、私の友人だった者たちも、そのように優しくしてくれることなど、一度もなかった。
私は、おそらく人生で最も大きい優しさを、享受しようとしていた。
・・・
「あい、これ、肉煮込ね。」
「お前さん達、ほんとに二人一皿でいいのかね。」
店主がそう聞くと、私たちは良しと答えた。
店主は、すくいを二つ、机に置いて、厨房に戻って行った。
「お前から先に食え。」
そう言われたので、私は嬉しそうな顔で、料理を一口食べた。
ミナはそれを見て、不思議そうに、私へ問いかけた。
「毒味が美味しそうに食べてどうすんだ、慎重に食べるのが普通だろ。」
そう言われて、私は、ああ、この町はそういう文化なのか、と考えた。
しかし、私はこうも思ったので、ミナに問いかけた。
「私が美味しそうに食べられるのは、つまり、この料理には毒がない、ということでは。」
ミナは一瞬、はっ、とした表情を浮かべた。
深く感心したのか、口元を緩めて、料理を一口食べた。
「…美味しい。」
二人は、あっという間に、肉の煮込みを平らげてしまった。
最後に残った肉片を、ミナは私の口に、これでもかと突っ込んだ。
「おまえが頼んだ料理だ、最後までゆっくり味わえよ、牛みたいにな。」
・・・
陽が落ちてきた。
もうすぐ、ここを去らなければ。
私が、帰る支度をはじめると、ミナは、少し虚な表情を浮かべた。
帰る道がわからないので、石碑に刻まれた地図を見ていると、それに気づいたミナが、私を呼ぶ。
「おれが駅まで案内する、道に迷って、くたばると困る。」
そう言ってミナは、私が支度を終える瞬間を見るや否や、腕を掴んで、強引に案内をはじめた。
連れられるがままに道を歩くと、そこには、昨日見た石の門と、馬小屋があった。
そうか、この馬小屋が駅と言うんだな、と感心していると、横にいたミナが私の手を握って、こう話した。
「また、会え…なくてもいいけど、その、死ぬなよ。」
私は、笑顔で、大きく頷いた。
「じゃあな。」
別れの言葉が、少し、だが確実に、私の胸を揺らしていた。
ミナの瞳は、少し濡れていた。
それが、この町で、最後に見た光景だった―――。
(おしまい)