紅茶と見る夢
読んでいただいてありがとうございます。大人のほろ苦い想いをどうぞ。
フレストール王国の女王クラリスは、書類仕事で凝り固まった肩を軽くもんだ。
「少し休憩する」
今日も朝からずっと仕事をしていた。
三十半ばともなれば、肩こりもひどくなってくるというものだ。
室内にいた侍女が、お茶の用意をしようとした時、扉がノックされたので入室の許可を出した。
入ってきたのは茶色の髪を綺麗に後ろに撫で付けた、クラリスより少し年上の男性。
男性は、侍女がお茶の準備をしている様を見て、女王に詫びた。
「申し訳ございません。休憩なさるところでしたか」
「ちょうど仕事に区切りが付いたところだったのだ。せっかく来たのだから、シモン、そなたも休憩に付き合え」
「かしこまりました」
「今日は天気も良い、テラスで休憩するとしよう」
クラリスがそう言うと、侍女が手早くテラスに置かれたテーブルの上に紅茶とお菓子の用意をした。
「しばらく下がっておれ」
女王の命令に侍女は一礼すると部屋を後にした。
残されたのは、女王と宰相のシモンだけだった。
シモンはクラリスを席までエスコートすると、自分は向かい側に座った。
こうして二人きりで向かい合うなど、何年ぶりのことだろう。
会うときは、いつも誰かが傍にいる。お互い立場ある身だ、仕方がない。
「ふむ。こうして二人きりになるなど、何年ぶりかな?」
「ここ五年ほどはなかったと記憶しておりますが……」
「そうか。それで、何か報告でもあったのか?」
「はい。今年はどうも天候があまりよくないようで、農作物の育ちが悪くなるのではないかという予測が気象局から報告されました」
「天候不順か」
「はい。各地の貯蔵の状況を正確に調べ、麦や日持ちをする作物を中心に、輸入量を増やすように命じてあります」
「それでよい。多少、値は張るかもしれぬが、仕方あるまい」
「はい」
休憩と言いながらも、結局は仕事の話になってしまう。
「しかし、気象局のじじい共も元気なことよ。先日たまたま見かけた時には、廊下を走っておったぞ」
「王宮内では、走らないように注意しておきます」
「転んで怪我でもしたら、面倒くさいことになるぞ。きっと口だけは元気いっぱいで、周りの人間がさぞ困ったことになるであろうな」
ふふふ、とクラリスが楽しそうに笑ったので、つられてシモンも微笑んだ。
「コンラートにも食材を優先して運ぶように、指示をいたします」
「コンラートか。あやつはあまりここには顔を出さぬが、たまには夫人と共に顔を見せに来いと言っておけ」
「伝えておきます」
「あぁ、まだ夫人の傷が癒えていないのならば、無理をさせる必要はないぞ」
「それも伝えておきます」
そういう細かい気遣いを出来る主だと誇りに思う。
「それと、我が従兄が帰国の船に乗ったそうですが、予定通り良き人材を確保してきたそうです」
「例の娘か。独学で我が国の言葉を覚えたという」
「はい。発音だけは、従兄が教えたそうですが」
「では、着き次第、新しい戸籍を与えよ。その者にはぜひとも王宮で働いてほしいものだな」
「口説き落とすように伝えておきます。それと、彼女の国から抗議が来た場合はいかがなさいますか?」
「放っておけ。我が国では他国の者であろうとも、優秀な人材ならば確保するのは当たり前のことだ。男女関係なくいくらでもいて良い。これからも積極的に、優秀な人間は狩っていく方針だ」
「かしこまりました」
この国は大きい。優秀な人材を他国が遊ばせておくというのならば、貰って何が悪い。
本人たちも生まれた国より待遇が良くなるので、喜んで来てくれている。
「人狩りですが。言葉にすると中々ひどいものですね」
「そなたも親玉の一人だな」
「我が女王陛下のためです。その称号、甘んじて受けましょう」
フッと笑ったシモンを、クラリスがじーっと見つめた。
「……何か?」
「いや、何というか……お互い、歳をとったものだな」
久しぶりにゆっくり眺めたシモンの左側のこめかみあたりに、白い塊があった。茶色い髪なのであまり目立たないが、間違いなく白髪だろう。
「あぁ、この白髪ですか。最近、ここだけまとめて生えてくるようになりまして」
「そなたは茶色い髪ゆえ本来はそこまでは目立たぬのだろうが、さすがにそれだけまとまっておれば分かるものだな」
「はい。娘は格好良いと褒めてくれましたよ」
「そういえば、そなたは昔から女性に騒がれていたな。今でも若い女性の憧れの大人の男らしいぞ」
「大変光栄なことです」
「謙虚という言葉を知らぬのか、そなたは」
呆れたように、クラリスは笑った。
笑った時に出来たクラリスの目尻のシワを見ながら、シモンも確かに長い年月の経過を感じた。
「そなたと出会ってから、もうずいぶんと経つな」
出会った時、クラリスはまだ十代の小娘で、シモンは将来有望な若き騎士だった。
シモンは、クラリスのために必死に勉強をやり直して、文官に変わったのだ。
今では、クラリスには夫との間に息子が一人いて、シモンも妻との間に息子と娘が一人ずついる。
お互い、子育てに悩んでいた時期もあったが、子供たちは幼い頃から親交があり、今は三人とも学校で様々なことを学んでいる最中だ。
「見よ、シモン。雲が馬みたいに見えぬか?」
何気なく空を見たクラリスが指を差した先にある雲は、確かに馬の形に見える。
「あれ、翼が付いてますね。天馬でしょう」
「天馬か……」
「クラリス様は、天馬に乗ってみたいと思いますか?」
「乗ってみたい。乗って自由に旅行してみたいな」
若くして女王の座に就き、国の舵取りをしてきた女王に自由というものはほぼなかった。
夫だって、多くの人たちの様々な思惑の中から、国にとって利のある人物を選んだ。
クラリスは、空に浮かぶ天馬を羨ましそうに眺めた。
「シモン、そなたは?」
「もちろん、乗りたいですよ。まずあの天馬は、この世界に一頭しかいないものとします」
「その設定はいるのか?」
「一頭しかいませんからね。私は愛する女性と共に乗りたいのです」
シモンは手元のカップに視線を落とした。
「私が天馬に乗ってどこかに行く時は、愛する方も一緒です。全てのしがらみから解き放たれたその方を私の前に乗せ、絶対に離しません」
カップに落とした視線を、真っ直ぐにクラリスに向ける。
静寂の中、二人の視線が交わった。
昔から変わらない瞳。
「……シモン、私はこの国に住む全ての者を愛している」
「はい。存じております」
クラリスは愛している、この国に住む人を。
「ですから、私はこの国から離れません」
「……そうか」
若い頃、シモンは何度も思っていた。
もっと自分に力があれば、と。
そして、今、シモンは彼女の絶対的な信頼を得ている。
しばらくの間、静寂がその場を包んだが、それは決して居心地の悪いものではなかった。
クラリスがカップを見ると、もう紅茶がなくなっていた。
「シモン、紅茶をもう一杯どうだ?」
「でしたら、私がいれましょう」
「よい。お茶に誘ったのは私だ。私がいれよう。久しぶりにやってみたくなったのだ」
クラリスは自らの手でいれた紅茶をシモンと自分のカップに注いで、一口飲んだ。
「……苦いな」
「ご自分でいれた紅茶ですよ?」
「仕方なかろう。私はこういうのは苦手なのだ」
自分でいれた紅茶を飲んで文句を言う女王に、シモンは優しい瞳を向けた。
「よいか、シモン。私は気が付いたのだ。紅茶をいれるのは私の仕事ではない。侍女の仕事なのだ。つまり私が紅茶をいれるということは、侍女の仕事の一つを取り上げるということなのだ」
そんなことを言う女王のいれた紅茶を飲んで、シモンは微笑んだ。
「本当に苦いですね。……昔と何も変わっておりませんね」
出会ったばかりの頃、紅茶を上手くいれられないから練習に付き合えと言われて、本当に毎回付き合わされた。
何度やっても失敗する彼女に最初の頃は慰めの言葉をかけたが、最後の方は素直に苦いという感想を伝えていた。
しばらくの間、茶葉さえも見たくなくなったのは、クラリスとの思い出の一つだ。
「そういえば、いつの間にか紅茶の練習は終わっていましたね」
「そうだ。さすがに諦めた。……ゆえに、私の紅茶の味を知る者は、そなたただ一人だけだ」
シモンはもう一口紅茶を飲んだ。
「えぇ、後にも先にも、私しか知らなくてよい味だと思います」
「……そなただけが、覚えておればよい」
家族でさえ知らぬ女王の紅茶の味を知るのは、シモンただ一人だけでいい。
「そういえば、先ほどの天馬の話に戻りますが……」
「何だ?」
「クラリス様が天馬に乗って旅に出られる時は、私も連れていってもらえるのでしょうか?」
「何を今更。そなたは、私の傍にずっといてくれるのであろう?」
それはずっと昔、クラリスだけに誓った言葉。
「もちろんです」
「ならば当然、共に行くに決まっておろう。嫌と言っても連れていく。そなたは、私の傍に永遠にいると誓った身だ。そうであろう?我が一の忠臣よ」
「はい。我が女王」
あなたにいらないと言われるその時まで、ずっとお傍にいます。
「シモン、我らとてたまには夢くらい見てもよかろう」
「はい、クラリス様」
二人だけの場所に、鳥たちの声だけが響いていた。
この一時だけは、誰も女王と宰相の休憩の邪魔をすることはなかった。