ふたたび「第審問官」を読んで
学生の頃に読んで、ほとんど内容を忘れてしまっていた大江健三郎の代表的な長編小説を最近、再読した。もっとも意外だったのが、『カラマーゾフの兄弟』の言葉がいつくも引用されているだけでなく、この長編小説の主人公をはじめ主要な登場人物の若者たちが、これらの言葉に導かれ結末へ向かっていくところだった。言葉のちからを強く感じた。
そしてオレは、やはり学生の頃に苦行僧のような気持ちでただページを捲った『カラマーゾフの兄弟』も、ふたたび読みはじめた。
新潮文庫の原卓也訳、上、中、下巻およそ2000ページ。しかし今回は急ぐつもりはまったくなく、むしろゆっくり時間をかけて、あたかも聖書を読むがごとく読んでいくつもりだ。
ご存知のとおり『カラマーゾフの兄弟』は、文豪ドストエフスキーの遺作であり、世界文学の最高傑作の一つである。文学を目指す者の必読書とも言えよう。よってオレは、苦行僧のごとく学生の頃にただページを捲ったのであったが……
まずは、『カラマーゾフの兄弟』の核ともいうべき、上巻最後の章の「第審問官」を読んでみた。これは次男のイワン・カラマーゾフが、修道僧の三男アリョーシャ・カラマーゾフに語ってきかせる自作の劇詩である。
イワンは「反逆」の章におけるアリョーシャとの対話で、数多くの幼児虐待の例をあげ、罪のないこれらの子供たちの苦しみと涙は何のためにあるのか、と問いかける。そして、無神論者のイワンのこの問いに、アリョーシャが、すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことのできる人がたった一人だけ存在する、つまりイエス・キリストであると返答する。
しかしながらイワンは、再度の反論として自作の劇詩「第審問官」を、アリョーシャに語ってきかせるのだ。
正直オレは、今回も、「第審問官」を読んでほとんど理解できなかった。そのため、この前の章の「反逆」を試しに読んでみた。イワンが、数多くの幼児虐待の例をあげ、罪のないこれらの子供の苦しみと涙は何のためにあるのか、と問いかけた章であるが……
実際、ドストエフスキーの父親は、地主貴族として領地を有し農奴百人ほどを使っていたが、彼が18歳の時に、領地で百姓たちに惨殺されてしまう。
アル中でもあった父親は地主として徹底した暴君で、百姓たちを虐待したり、器量のよい十四、十五歳の村の娘たちを女中奉公に取りあげては、次々に手をつけたりしていたため、百姓たちの恨みを買い惨殺されてしまったのだ。
この事件は、まだ若いドストエフスキーに大変なショックをあたえ、この『カラマーゾフの兄弟』の父親殺しの主題の土壌になったとも言われている。
ともかく「反逆」の章を読んでみたので、今度こそ理解できるかどうか、もう一度「第審問官」にチャレンジしてみるつもりだ。
今晩から冷え込みが強くなる。エアコンで温められた部屋で愛犬シーズーのシーと一緒に寝ながら、YouTubeで能登半島地震と羽田航空機事故のニュースを観ている。オレは仙台市在中だから、東日本大震災を直接経験した。家屋の倒壊だけに限れば、今回の能登半島地震の方が被害は甚大にみえる。
人間がどんなに高度化された文明社会を築きあげても、結局は大自然の一部でしかないことをあらためて思い知らされた。