わかる者にはわかるように
電子書籍のブックライブで、大江健三郎、古井由吉の対談集『文学の淵を渡る』の冒頭の「明快にして難解な言葉」を読んだ。
対談は、おもに言葉の明快な難解さについて語られていたが、内容は別として、二人の会話にはさまざまな知らない言葉が出てきたため、Googleで調べながら読みすすめざる得なかった。
また直後に、古井由吉の小説を読んだことがなかったため、同じブックライブの試し読みで、芥川賞受賞作の『杳子』の冒頭の数ページも読んでみた。
古井由吉は、「内向の世代」と呼ばれていたらしく「社会的問題やイデオロギーなど外部に距離をおいて、内に向っている作家たち」との批判もあったようだ。たしかに、『杳子』の一つの場面にも多くの心理的描写がなされており、そこまで書いてしまうのか? という思いと、そこまで細かく描くのもまた優れた小説の証なのか? との複雑な思いが残った。
いわば小説は人間を描くことならば、より深い心理を描くことも必要だが、もう一人の対談相手の大江健三郎は、「社会的問題やイデオロギー」を積極的に描いてきた小説家であり、オレには、大江健三郎の小説の方が魅力的に感じる。
──なぜなのだろう?
聖書や「コーラン」が、たとえ話をずいぶんする。あれはだれのためにしているのか? 生弟子たちのためにしているのではない。一般人に対して、わかる者にはわかるように、わからない者にはわからないように、説明している。そういうことと文学は関係があるらしい。
本当にわかる者がいて、かれらは共有しあって、一種のエピファニー(顕現)があるようだ。
最後にオレが、Googleで調べざる得なかった言葉を挙げてみよう。
ディスクール、ムージル、エピファニー(顕現)、ラング、パッシーブ、パシオンなど。
石川県の能登半島で大地震が起きた。ニュース映像を観ながら、やはり東日本大震災を思い出した。
愛犬シーズーのシーは愛らしい寝息を立てている。オレはシーの頭をそっと撫でた。