『キリストのヨルカに召された少年』
青空文庫で、ドストエフスキーの『キリストのヨルカに召された少年』を読んだ。ほんの5分ほどで読める掌編だった。ヨルカとはモミの木のこと、つまりクリスマス・ツリーだ。
──エスさまのところにはね、この日にはいつもきまってクリスマス・ツリーがあるのよ。あすこで自分のツリーのない小さな子どもたちのために立ててあるのさ。
エスさまとはイエスのこと。
タイトルからも、だいたいどのような物語なのか想像がつくだろう。ドストエフスキーらしい優しさが垣間みえる。
すでに冷たくなった母親を残し、地下室から夜の街へと飛びだした少年。あかりが多い、どこを見てもあかりだらけ。なんて大きなガラス。
ガラスの向こうは部屋になっていて、部屋の中には、天井までとどきそうな木が立っている。クリスマス・ツリーだった。
そのクリスマス・ツリーには、あかりや金紙や、りんごがどっさりつるさがっていて、そのまわりは、人形やおもちゃの馬がぎっしり並べてある。
晴れ着を着たきれいな子どもたちが、部屋じゅうをかけまわって、笑ったり遊んだり何か飲んだり食べたりしている。子どもたちがおどりだし、音楽もガラスごしに聞えてくる……
少年は、じっと見つめているうちに思わずにこにこしだしたが、そのうちにもう足の指までいたくなってきた。手の指は、まっかになって、まげることもできないし、ちょっと動かしてもずきんといたい……
晩年のドストエフスキーが、キリスト教への信仰を厚くしたのは有名らしいが、『カラマーゾフの兄弟』で描かれていたのはある意味、神の存在の否定だという人もいる。オレにはまだよくわからないが、『カラマーゾフの兄弟』の主題は、神不在の世界を人間はどのようにして生きるのかということなのかもしれない。
大きな主題を根底にもった小説はそうはない。大きな主題を根底にもった小説を選ぶちからをもつこと、読みつづけることが、オレにとってなによりの勉強なのだ。
そういえば、『フランダースの犬』でもクリスマスの晩に、ネロとパトラッシュが天に召されてしまった……
今晩の愛犬シーズーのシーは、オレの方にお尻を向け熟睡している。オレにとってシーは神の子なのだ。