『大江健三郎 作家自身を語る』Part2
──僕の小説は、リアルな現実をとらえることをめざすんだけど、観念的なある言葉から始める、という書き方をやろうと考えた──
大江健三郎は、『大江健三郎 作家自身を語る』のなかでそう語っている。たとえば初期の『不意の啞』という短編でも、まずは「啞」という言葉から始まっているという。
不意に何かが起こって社会が、自分が変わってしまうということは敗戦のときからずっと感じており、「不意の啞」という言葉を自分で作って、そうなる人々のことから考え始める。そこから物語を作り始め、 ──社会を観察して、ひとつのモラル、理念を引き出して書くというのではなくて── はじめに観念的なものを頭のなかに作り上げて、それを現実のふさわしい場面に当てはめてみる、そうすることによって小説を書き始めた。 ──その方法でいくらでも小説は書けた、短い物語なら──
しかし、大江はそうしたものを次々と書いていくうちに、これから作家として生きていこうとする人間としては、自分は何も将来に向けて足場を構築していないと感じ不安になっていったという。当時の「第三の新人」という作家グループのように自分の経験に即して小説を書き始めた人たちが多くいたし、自分だけ観念的だと思えて満足できなくなった。自分の小説の弱点だけが目立ってくるという日々が始まって不安だったと。
大江のいちばん初期の作品群がフランスのガリマール社で翻訳されて、これらの作品は本当に戦争が終わって10年経ったくらいの時期の、日本の地方出の青年が、東京でどういう暮らしをしているか、どういうふうに鬱屈した気持ちを抱いているか、疎外された感情を持っているか……そうしたことがよく表現されていると ──思いがけず── 批評を受けた。
それによって大江は気づかされたという。物語を作るということには、書いている自分を超えて ──どんなに観念的だと思っていても、子どものときからの記憶が小説のなかに入り込んでくる、東京の見なれない環境で暮らし始めて観察したものも入り込んでくる── 自分では意識していなくても、読むに値する具体的な姿が描かれ、それなりに同時代の現実、日本人が反映されていたと。
その後大江は、長男の光 ──障害児として── の誕生で、心理的な危機などとはいっておれないところへドスンと突き落とされ、またはグっと押し上げられるかして、自分の現実生活と向かいあうことになっていった。そうして、光をモデルとした ──聖性恢復を祈るような魂の救済を描く── 類い稀な長編群を生み出していった。
この『大江健三郎 作家自身を語る』の対話形式での聞き手、尾崎真理子が語っている。
小学生になった頃、60年代半ばに父から聞いた話しを、なぜかはっきり覚えています。
──大江健三郎という、とてつもない才能を持つ作家が現れて、同時代の作家志望の青年たちは、筆を折ってしまったんだ──
今晩もエアコンで温められた部屋で日本酒を飲みながら、愛犬シーズーのシーの寝息を聴き、大江健三郎の長編小説を読んでいる。それはほんとうにかけがえのない時間だ。