『懐かしい年への手紙』第三部 第二章「自己の死と再生の物語」
『懐かしい年への手紙』第三部 第二章「自己の死と再生の物語」
旅のなかばのギー兄さんが、夏のさなかにメキシコから帰ったKちゃんの成城学園の家に、その年の冬のはじめ粉雪が舞い散る日に現れた。傘を持って出るぼどでもない雪に、それでも頭から肩を濡らしてKちゃんが出先から戻って来ると、ギー兄さんは書斎兼寝室で眠っていた ──いまや髪が薄くなって傷痕のめだつ頭と、不穏な気配さえあらわす首筋をした、中年も終わりの方の・苦しげに眠る男── ようやく服装も表情もしっかりととのえて居間にあらわれたギー兄さんは、再生装置の前に寝そべって音楽を聴いているヒカリ ──頭に障害があるKちゃんの長男── を見おろして最初の言葉をのんびりといった。
──ヒカリさんは、ずいぶんきれいな子供だねえ。夏にオユーサンと森のなかへ来てくれた時、以前から会っているような懐かしい気持ちがしたよ。
もっともヒカリはずっとヘッドフォーンの音楽に夢中で関心を向けなかったが……
──……ただいろんな地方を見るうちにね、われわれの森のなかの土地が独特な個性を持った場所だとわかってね。これから死ぬまで森のなかで暮らすことに、自分として納得がいったよ。
またギー兄さんは、Kちゃんが出かけている間に、Kちゃんがいま書いている小説の草稿を読んでこうもいった。
──漱石の悲惨な主人公の台詞どおりに、「記憶して下さい。わたくしは斯んな風にして生きて来たのです」と訴えかけているわけだ。しかしKちゃんよ、きみのなかで自己の回心の・死と再生の物語を書く時は熟しているかい?
自分として不満足の理由が根本にあるとわかった小説の草稿を、Kちゃんは煖炉で燃やしながらギー兄さんへ言葉をかえした。
──まだ僕には、自己の回心を書く時期が熟していないよ。それならば、いったんヒカリと家族の主題を離れてね。森のなかの村の生成と発展ということを、神話と歴史をからめた具合に書こうかと思う。
──……「壊す人」の話を書くの?
のちにKちゃんは「壊す人」の話を書いた。原稿用紙1000枚を超える大作『同時代ゲーム』を……
大江健三郎の『同時代ゲーム』は彼の長編作品群のなかでももっとも重要な作品だろう。《壊す人》が登場する村=国家=小宇宙の物語……
薄明のなかを愛犬シーズーのシーと散歩しながら、底辺から赫く染まる東の空の崇高な光景のなかに小宇宙を感じ、あるいはシーこそが《壊す人》ではないかと思いをめぐらした。