『懐かしい年への手紙』第二部 第七章「感情教育(一)」
『懐かしい年への手紙』第二部 第七章「感情教育(一)」を読了した。
僕がしばしば思い出すギー兄さんの手紙の一節は、処女作は、作家の行く末を示しているという言葉である。という冒頭でこの章ははじまった。
ギー兄さんは手紙で、Kちゃんの二番目に書いた短編『死者の奢り』という小説を、東京大学新聞に載った最初の短編『奇妙な仕事』との対比で、鋭くかつ適切に批判していた。
大学新聞を読んだ文芸雑誌の編集者から手紙がきて小説を書くことになったが、悪戦苦闘し注文の期限がせまっていたため、Kちゃんはさきの犬殺しの短編と同工異曲のもうひとつの短編を作りあげるほかなかった……
ギー兄さんの手紙には、どんなふうな胸にこたえる悲しいような気分を表現しえたかね? との問いかけとともに、森のなかの土地とつながるものはなにひとつあらわしていない、との言葉もあった。
しかしながらKちゃんは、ギー兄さんの手紙での批判を顧みるよりも、文芸雑誌から新しい注文が来るにまかせて、めさきのもっと花やかに感じられることに、若い体力をそそぎこんでいった。そうしてKちゃんは、高校の同級生の秋山君 ──伊丹十三のこと── の妹のオユーサンと紆余曲折のうえ結婚することが確定する。
実際にオレは『奇妙な仕事』は未読だが、ずいぶん前に『死者の奢り』は読んだ。脂の乗った中期頃の長編を中心とした作品群と比べれば、まだ目指すべき方向が定まっていない20代前半の若者が、背伸びをして書いたという印象が拭えなかった。なんのために、なにをいいたくて書いたのであろうと……
実際として、大江健三郎の作品は、長男が頭に障害をもって生まれてから大きくかわり、森のなかの土地とつながりのある『万延元年のフットボール』や『同時代ゲーム』等の大作へとつづいていったように思う。
今晩は愛犬シーズーのシーと一緒に寝ながら、連載中の長編『シーとピンク色のテロリスト』の更新も行った。オレの文章は大江健三郎から学んだことが多いけれども、オリジナルな新しい文体を目指して行きたい。