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『懐かしい年への手紙』第二部 第四章「原理はわかっても問題は難しい」



 『懐かしい年への手紙』第二部 第四章「原理はわかっても問題は難しい」を読了した。


 主人公のKちゃんは、受験勉強について根拠のない先入観を持っていて、当時の分類で、解析I、幾何の数学の二科目は、原理がわかっていれば問題は解けると、教科書を読みかえすだけで問題集には時間をさかなかった。実際、模擬テストでは上位得点者名簿に名前が載って張り出され、教科書で原理をよく理解しておけば、問題集で解き方を訓練する必要はない、という思い込みをさらに牢固たるものとしていた。

 そうして翌春、Kちゃんは東京大学を受験した。第一日目、数学の試験問題を縦長の用紙の上に読みとった時、すぐさま彼は、受験についての自分の固定観念の致命的な欠陥を発見することになる。原理はわかっていても、具体的に紙に書いて問題を解く時間がなかった。問題集で訓練するのは、解き方のルーティンをあらかじめ頭にストックし、実戦の時間を節約するためだったのだと悟ることになる。

 谷間の村の父親の墓を妹と掃除していた時、遅れて墓地への斜面を勢いよく小きざみに足を運んで登って来る母親、妹はお母さんが嬉しそうに登ってやって来られるからKちゃんは合格したのだと思うが、Kちゃん自身はその逆だと感じる。

 東京大学への出口を閉ざされて、終生この谷間で過ごす、それは母親を喜ばせるのみならず、「壊す人」にも(よみ)せられる決定で、ほかならぬ自分自身も、それを望んでいたのだと感じるのだが……

 しかし母親は実際的な手段を講じていた。すぐにもギー兄さんへ翌年の受験のやりなおしのための指導を頼みに行ったのであった。

 ギー兄さんは、Kちゃんが屋敷に勉強に来る間、ダンテの『神曲』を読むつもりだと語る。時間をかけてゆっくり細部を読むのでなでなければ、背負い込んでいる当面の・あるいは将来の問題は解けない。生きている自分の持ち時間のうちで、問題を解く練習が必要だと……

 実際に大江健三郎は、東京大学の受験に失敗したあと、一浪して東京大学へ入学している。原理がわかっていれば問題は解けると、教科書を読みかえすだけで問題集には時間をさかなかったというのは、当時の受験のレベルがどうであったかは別にしても面白かった。


 この『懐かしい年への手紙』を少しでも読みすすめようと、電車の中でカバンから分厚い文庫本を取り出してまわりを見渡すと、オレは自分だけが別世界で生きているような錯覚に陥った。「壊す人」の森から生まれ、「壊す人」の森へと還っていくと感じている主人公のKちゃんとギー兄さんの伝記のような生涯の物語。おそらくこのような物語が存在していることなど誰も想像すらしていないだろう。そして仕事で疲れているにも関わらず、この物語を読みすすめるようとする自分がいる。オレはなんのためにこの分厚い文庫本を読みすすめようとしているのだろう? すぐ向かいに座っているOLらしき女性が、オレがカバンから取り出した分厚い文庫本を一瞥(いちべつ)し、平静を装いながらも少し驚いた表情をみせた。

 なんとなくオレは、自分がこの宇宙に生まれて愛犬シーズーのシーと出会い、シーとともに生きつづけている、そのためにはこの分厚い文庫本を読む必要があると、ぼんやりとだが確信している。そんな気がした。まだよく理解したわけではないが……




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