完璧な文章などといったものは存在しない 完璧な絶望が存在しないようにね
いよいよ今回は、毎年ノーベル文学賞が話題となる村上春樹について語ってみたい。
彼の小説が純文学に該当するものであれば、おそらくいま日本でもっとも売れている純文学の小説家であり、もっとも海外で翻訳されている作家であろう。
オレが初めて読んだ村上春樹の作品は、デビュー作の『風の歌を聴け』だった。 ──新潮文庫の100冊に入っていたと記憶している── 当時まだ大学生だったオレは、同じ大学生の主人公のちょっと風変わりなひと夏の体験を、自分のことのように感じながら読みすすめ、最後にタイトル通り風の歌を聴くことができて嬉しくなった。
それでもその風の歌が、楽観的な人生謳歌のようなものではなく、爽やかでありながらどこか孤独で悲しい歌だったからこそ、オレは村上春樹に好意を抱いた。
『風の歌を聴け』の冒頭は、とても印象的な文章からはじまる。
──完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
そして何度か読みかえすうちに、村上春樹が20代最後の年に書いたという、若干軽いタッチのこのデビュー作『風の歌を聴け』には、すでに彼のすべてが書かれてあることに気がついた。
──僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。
主人公の「僕」は、そう語った。
小説の途中、たとえばハートフィールドが書いた『火星の井戸』という小説も紹介される。
しかも、ハートフィールドは、1938年6月のある晴れた日曜日の朝、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたまま、エンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りたとされていた。
小説の最後に、オハイオ州の小さな町の、彼のハイヒールの踵ぐらいの小さな墓を訪ねると、墓碑には、ニーチェの言葉が引用されていた。
──昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。
そして、この小説は、再びハートフィールドの言葉によって幕を閉じる。
──宇宙の複雑さに比べれば、この我々の世界などミミズの脳味噌のようなものだ。
繰りかえしになるが、オレは大学生の時に初めて『風の歌を聴け』を読み、その後もときおり何度か読みかえした。
しかし、愚かにもつい先日まで、この主人公の「僕」が文章について多くを学んだというデレク・ハートフィールドが、架空の作家だということに気づいていなかった。
Googleで、「デレク・ハートフィールド」を検索すると、 ──村上春樹の小説『風の歌を聴け』の中に登場する架空の人物。主人公の「僕」が最も影響を受けた作家として登場する── とある。
たしかに、大学図書館にハートフィールドの本を読みたいと学生のリクエストがあったという逸話は存在する。しかし、おそらくほとんどの読者は、デレク・ハートフィールドが、村上春樹が生み出した架空の作家だということに気づいたはずだ。
10数年間も騙されつづけた愚かな自分に、思わず苦笑した。
──こんなに長い間、信じていた人間なんてオレぐらいだろう!
続けてオレは、『風の歌を聴け』との3部作になっている『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』読んだ。
そして1000万部の大ベストセラーの『ノルウェイの森』を読み、しばらくしてからオウム真理教を彷彿とさせるこれもベストセラーとなった『1Q84』を夢中になって読んだ。
しかし徐々にオレは、初期の作品では馴染めた村上春樹の小説に、ついて行けなくなってきている。平易な文章で難解な物語を描くスタイルの、難解な物語について行けなくなってしまった。それは単にオレの能力の問題かもしれないが……
それでもいまオレは、久しぶりの村上春樹の新作長編小説『街とその不確かな壁』を読んでいる。ゆっくりと焦らずに……
──僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。
今日の仙台は、午前中から小雨が降りはじめた。あいかわらず愛犬シーズーのシーは、壁際の畳の上で、ときおり寝言を言いながら寝ている。
──シーはオレのレーゾンデートル!