文学とは
──文学は根本から励ますものでなければならない
(大江健三郎)
ふたたびオレが学生時代以来、拙いながらも小説を書きはじめ、この作家の小説を読まなければ決してほんとうの小説を書けるはずがないと感じていた大江健三郎の小説を熱心に読みつづけるようになり気がついたことがあった。オレは大江の小説を読みつづけながら、根本から励ましを受けていたのだ。
学生時代に読んだ大江の長編小説『洪水はわが魂に及び』をふたたび読みはじめると、わずかにうろ覚えに過ぎなかった記憶がことごとく破壊され、その想像を超えた言葉や内容、ストーリーにとても驚かされた。夢中になって読みすすめているうちに、いつの間にか涙が溢れるような感動に包まれ、オレは根本から励ましを受けていたのだ。それは次に、はじめて読んだ短編連作集の『河馬に噛まれる』においても同じであったし、いま現在読みすすめている長編小説『懐かしい年への手紙』でも同じである。大袈裟かもしれないが、オレは大江のこれらの小説 ──フィクションの世界── から、現実世界では得られない根本からの励ましを受け、シーとともに厳しい現実社会を生きつづけるためのチカラを得てきたように思える。
大江健三郎は、ノーベル文学賞を受賞したにも関わらず、若者を中心にほとんど読まれていない小説家でもあるが、それは商業的なことよりも、自分の追い求める小説を書きつづけた結果として、彼自身も納得されているであろう。 ──それが許されることがそもそもすごいことでもあるが、彼の小説がなぜこれほどまでに読まれていないのか、彼自身の世界に入り込み過ぎてしまったきらいがあるが、時間があればゆっくりと考察してみたいところだ──
ひとつの小説が、根本的にどこに向かって書かれているのか? ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』も根本から人間を救うため励ますために、彼自身の集大成として書かれた小説のように思えるのだが……
薄明のなか愛犬シーズーのシーと散歩に出かけると、東の空が赫くひろがり宇宙の眼差しが、オレとシーを見守ってくれている。白とゴールドの体毛がかがやくシーは神の子だ。