『懐かしい年への手紙』PART2
人間には、読書を習慣にしている人間としていない人間に分けることができよう。また基本的に小説を読む人間と読まない人間とに分けることもできよう。オレは大学に入学してから、基本的に小説を読む人間になったため、 ──まったく小説を読まない人間は、人生経験から多くのことを学ぶことができたとしても── 貧相な人生経験からは得られない大切なことを、小説から得ることができた。それはおそらく、一般的な人生経験では得られない大きなひろがりをもった深い世界であり、より知的なレベルの体験だっただろう。酒を酌み交わしながら仲間うちで話す会話とはまったく違った次元なのだ。
大江健三郎の長編小説『懐かしい年への手紙』の第一部 三章「メキシコの「夢の時」」を読了した。
とくにこの章は、この小説での重要なキーワード的な事柄が散りばめられていたように感じ、オレは読みすすめながら、カタルシスを感じずにはいられなかった。 ──相変わらず英文が、邦訳なしで記載されていたが── なぜ大江が、故郷である森のなかの谷間と「在」の昔語りに根ざす自伝的な小説を書きはじめたのか? このあたりの経緯が少しずつ語られてあった。
──われわれの村の信仰で、死んだ肉体から離脱して、森の木の根方に憩う魂こそが、「永遠の夢の時」に帰った魂じゃないだろうか?──
くり返しになるが、カタルシスの意味を「浄化」 ──舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることによってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心の中に鬱積している同種の情緒を解放し、それにより快感を得ること── と限定して適用するならば、オレは、この三章「メキシコの「夢の時」」読みすすめながら、次第にカタルシスを感じはじめていった。
子どもの頃の、死んで自分のなにもかもがなくなって、その後にいつまでもいつまでも時が経つという恐怖を、大江自身も子どもの頃の眠れぬ夜に体験し、死んだ魂が森の根方に憩い、時が経てば再生され生まれかわるという信仰を、すぐに信じることはできなかったにせよ、なんとか乗り切るひとつの知恵として考えていたことを知り、共通点を見出しつつ救われるような思いになったのだ。
次章の、第四章「美しい村」を読了したらまた感じたことを述べてみたい。
今晩も愛犬シーズーのシーの寝息を聴きながら日本酒を飲み、Rimbaudの詩集『地獄の季節』(小林秀雄訳)の「Adieu」(別れ)のページを開いている。この「Adieu」をもとに短編小説を書いてみたいと思いながら……