『死に先だつ苦痛について』読了
高校3年の夏休み、夏期講習のため仙台市へ向かう電車の中で読みはじめた太宰治の『斜陽』。あのときオレは、未成熟なこころが禁断の実に触れたような、はじめて世の中(大人社会)の秘密に触れたような背徳感とともに読みすすめた。それは、はじめて神のような声を聴いた経験だった。
今回、大江健三郎の短編連作集『河馬に噛まれる』を読みすすめていると、そのときと同じような感覚を体験している自分がいることを感じた。すべての短編小説が子供の頃に読んだ童話のように新鮮であり、聖書をよく読んだこともないが、まるでクリスチャンが聖書からあらゆる啓示を受けとるように、オレはこの短編連作集から多くの大切な啓示を受けとっていることに、あらためて驚かされている。
この短編連作集『河馬に噛まれる』に一貫として流れているテーマは、 ──連合赤軍のあさま山荘事件── についてである。この短編連作集が出版されたのが1985年、あさま山荘事件(1972年)の解決から10年以上経過した後に発表されている。 ──この事件の後、学生運動はいっきに収束へと向かった── 残念ながら、鼻っからこれらの事件を暴力的過ぎると否定だけしている種類の人々には、何の意味ももたない小説かもしれなが……
現在、学生運動という言葉にどれだけの人々が何らかの関心を抱いて反応するだろうか? 若者のなかで皆無であることはもちろんだが、戦後日本が高度成長期であった期間に起きたこれら学生運動、60年安保闘争や70年安保闘争、および全共闘運動は、団塊の世代の若者らによって起こされたものだった。ひと世代前の大江健三郎は、この『河馬に噛まれる』によって、大江なりの学生運動への思いと、学生運動に参加した当時の若者らに対する思いを示しているように思える。しかもその思いは、どこかささやかな感謝とあたたかな励ましが込められているようなのだ。
現在、団塊の世代の人たちは70代となった。多くの人が引退され、おだやかな老後を暮しておられるだろう。あの当時の今では信じられないほどの熱いエネルギーがどこから生まれ、どこへ向かおうとしたのか、少なくてもオレは興味がある。
本日、ようやく短編連作集『河馬に噛まれる』6作目の『死先だつ苦痛について』を読了。この短編連作集でとくに長い短編小説だった。「千年王国」思想にもとづく荷物カルト運動を目指した「武闘計画」。自分の死後も、個のそれとはちがう生命をそなえた共同体。そして小説の力とは? 大江の静かな熱い鼓動が感じられた。
ガザ地区の各病院への攻撃によって犠牲が拡大している。またしてもイスラエルは病院への攻撃を否定しているが、もはや誰も信じない。多くの国でイスラエルに対する抗議の声が上がり、抗議デモも起きている。しかし日本ではそうした具体的な声が聞こえてこないし抗議デモも起きていない。なぜ日本が30年間も経済成長が停滞しているのか、わかったような気がした。多くの日本人は自分のこと以外に無関心で何も行動を起こさない、自分さえ良ければいいのだ。 ──著しく国民の民度が低いのだ──
オレは今晩も、エアコンで温められた部屋で愛犬シーズーのシーの寝息を聴きながら日本酒を飲んでいるのだが……