『ピンチランナー調書』読了
『ピンチランナー調書』第十章「ヤマメ軍団のオデュッセイア」、第十一章「道化集団の上京」、第十二章「「転換」二人組、相争う」を読了し、ようやく昨日『ピンチランナー調書』を完読した。 ──同時並行して読みはじめた村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』は、まだ3/2ほどしか読んでいない──
完読したばかりで、まだオレのなかで、この長編小説をきちんと消化しきれていない。少し熟考する時間が必要なため、今回は章ごとの感想は省略し、簡単な全体の感想ごときものだけを記する。
まずは、大江健三郎自身、発表から数年後の自作解説で、次のようにこの長編小説を回想しているので紹介したい。
──私は、この世界の終り、という強い予感にとりつかれていたのだった。『洪水はわが魂に及び』は、ひとつの悲劇として、『ピンチランナー調書』は、喜劇として、しかしそれぞれに迫ってくる緊張感の中で書いた──
『ピンチランナー調書』は、喜劇として書いたと大江は回想している。しかし、オレがこの長編小説を読みすすめながら哄笑した場面はひとつもなかった。むしろつねに緊張感のなかで、何度も大きく頷き、森と森・父を「転換」させた宇宙的な意志とは何かを考えつづけながら読みすすめた。 ──宇宙的な意志という言葉から何を感じるだろう。あたかも神のようにすべてをつかさどるものなのか?──
それからオレは、『ピンチランナー調書』の第一章を読了して記したエッセイで、次のような期待も込めていた。
──太陽の光が地球上のあらゆる生命を育んできたとするならば、文学はどれだけ太陽の光に近づくことができるのだろうか? またできたのだろうか? そんな普遍的な問いへの解答が得られるのではないかと期待を抱きながら、1976年に発表された大江健三郎の長編『ピンチランナー調書』の第一章『戦後草野球の黄金時代』を読了した──
ソレハソノトオリダ、滅茶苦茶ハ、ダメダ。凍ルヨウナ寂シサ・恐ロシサニ襲ワレルカラサ、全体ガアモルフ二崩壊シハジメタ時代・世界ニ生キテイルンダカラネ。ナオサラ切実ナワレワレノ問題トシテ、滅茶苦茶ハダメダ。オレタチハ、ソノ滅茶苦茶ヲ建テナオシ、全体ヲ蘇生サセル人間タラネバナラヌハズジャナイカ?
オレは思った。
──やっぱり、滅茶苦茶ハダメなんだ!
ナオサラ切実ナワレワレノ問題トシテ、滅茶苦茶ハダメダと。
──ソノ滅茶苦茶ヲ建テナオシ、全体ヲ蘇生サセル人間タラネバナラヌ! それが宇宙的な意志に従う森と森・父の「転換」二人組なんだと!
「切実ナワレワレノ問題トシテ」
→やがて死ぬことなど思ってもみずに、街を歩いたり食事をしたりしている日本国民が、やがて死ぬことなど思ってもみずに、盲目的に繁栄を謳歌し、地球が終末に向かっているとしても……
→ナントオメデタイ! 滅茶苦茶ジャナイカ?
ヨク闘ウスベテノ諸君ニ、挨拶スル。ヨク闘ウ人間ヨリ他ノ、コノ世界ノスベテノ人類ハ、宇宙的視点ニヨレバ、抜ケ殻ニスギナイ。
トコロガワレワレハイマダ、宇宙ニ向カッテ挨拶ヲカエスコトガデキナイ。
真ノ挨拶ニ、同ジク真ノ挨拶ヲカエスコトガデキナイノハ、ナント不幸ナコトダ!
「転換」シタコトガ、走ルコトノデキヌ、走ラネバナラヌコトヲマダ知ラヌ、ソンナ者ラノタメノピンチランナーニナルタメダトシタラ、スグニモ走リ始メネバナラヌカモシレナイゾ
リー、リー、リー、リー、リー、リー。リー、リー、リー、リー、リー、リー、リー……
『ピンチランナー調書』的にいえば、ハマスとイスラエルの戦争も宇宙的視点ニヨレバ、 ──ナントオメデタイ! 滅茶苦茶ジャナイカ? ということになる。人間の業があらわれた傲慢さ、子供の命を蔑ろにする人間の愚かさそのものだ。自然界では食物連鎖をはじめ利他的なもので成り立っているというのに……
今晩もエアコンの暖房で温められた部屋で、オレは愛犬シーズーのシーの寝息を聴きながら日本酒を飲み、 ──人間の愚かさに、滅茶苦茶ジャナイカ? と叫んでいる。