「ピンチランナー調書』第八章「続「親方」の多面的研究」
『ピンチランナー調書』第八章「続「親方」の多面的研究」を読了した。
大江健三郎の小説を読むたびに目を閉じて深呼吸をし、文学とは《なにか》という根本的な問いかけを自問自答している自分を見いだす。それだけ大切なものをそっと託された気持ちになる。もちろん答えを得られるわけでもなく、ただ自分の心奥に小さな光、または灯りをひとつ仕舞い込むにすぎないが……
ある党派が勢力をもつ大学で、「大物A氏」襲撃の報告集会が開かれており、乗り込んだ森・父、「志願仲裁人」は、党派の学生に捕まって激しい暴行を受け俘虜となってしまう。
敷石の上で殴られ蹴りつけられた後、「志願仲裁人」ともども引ったてられて行く間、森・父を放心させたものは傍観学生だった。森・父と「志願仲裁人」のやられていること全体に、いささかの興味も示さない。傍観学生の色彩豊かな当世風俗のカラフルな世界にくらべ、森・父と襲撃者の世界はモノクロだった。カラフルな世界の連中から見れば、われわれは「見えない人間」であったのだ。 ──この長編小説の当世風俗とは70年代のことだが、令和の若者にとっても「見えない人間」は多々存在するのではないか──
一方で別途捕まっていた反・原発のリーダー「義人」が死んだことを知る。彼は監視隊の隙をついて走り出し、大学のコンクリート塀を攀じ登りはしたが、向こう側は国電の線路まで80mの崖だったのだ。塀の鉄条網を踏みこえて、アーという声を発して。
滅茶苦茶ジャナイカ? 森・父は、喉のつまった蛙声をだして泣いた。しかしそれに応えて、再会した森の発する無言の言葉は、眼をつぶっている森・父の脇腹に置かれた森の右手をつたわって、内臓に響く。「転換」前の小さな肥った指が森・父の躰にまつわりつき、言葉にならぬ呻き声を発した時のように……
ソレハソノトオリダ、滅茶苦茶ハ、ダメダ。凍ルヨウナ寂シサ・恐ロシサニ襲ワレルカラサ、全体ガアモルフ二崩壊シハジメタ時代・世界ニ生キテイルンダカラネ。ナオサラ切実ナワレワレノ問題トシテ、滅茶苦茶ハダメダ。オレタチハ、ソノ滅茶苦茶ヲ建テナオシ、全体ヲ蘇生サセル人間タラネバナラヌハズジャナイカ?
森・父は現にすぐまぢかで生きている、自分の躰にふれている森とコレスポンデンスをした。
そして、森・父は武者ぶるいをして思ったのだ。「義人」はそのように滅茶苦茶な死をとげて、かれ自身を大きい幻の凧のようにおれたちの頭上に浮かびあがらせたのだから! 当分この幻の凧から自由になることがないだろうと、「転換」を意味づけるもうひとつの徴しを見出したように……
滅茶苦茶ジャナイカ? この言葉にナニヲカンジルカ? 70年代に発せられたこの言葉が、今を生きるオレ自身にも強く響いてくるのはなぜなのか? 令和の時代であっても、滅茶苦茶ジャナイカ? との叫びをはたして否定できるのか?
さらにエアコンの暖房で温められいる部屋で、愛犬シーズーのシーと一緒に寝ながら、ガザ地区の現状に対して叫びたくなる 滅茶苦茶ジャナイカ?