キ印の背中に白い羽がついていたのは……
戦後のイタリアではすぐに、ネオリアリズモ(新現実主義)と呼ばれる映画運動が生まれた。ネオリアリズモは、華やかな世界をロマンチックに描くのではなく、素人の俳優を起用し道端で撮影を行い、現実の出来事や状況を描くものだ。娯楽性よりも、世の中がいかに残酷かつ非情で不公平なものかを描き出す真実の探究だ。
代表的なものとしては、カンヌ映画祭グランプリを受賞したロベルト・ロッセリーニ監督の『無防備都市』『戦火のかなた』、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『靴みがき』『自転車泥棒』などだが、戦後イタリアにおけるネオリアリズモは短命だった。なぜなら、あまりに真に迫っていたこと、あまりに内省的であったこと、そしてその描写があまりに容赦のないものであったからだ。しかし、このムーブメントは、やがてフランスのヌーヴェル・ヴァーグなどの源となり、その影響は今日にも及んでいる。
昭和29年(1954年)、そのネオリアリズモの最後の流れをもつイタリア映画、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』(La Strada)が、日本でも上映された。
映画評論家の淀川長治さんが、『道』について語っていた。
──私が本当に愛した映画。これはイタリア映画のもっとも代表的な作品ですね。
戦争が済んだあと、イタリア映画祭でまずこれが日本に入って来ました。
みんな『道』とは何にもわからない。なんだろうと観に行きました。
この映画みてびっくりしたんですね!
こんな静かな、こんな怖い、こんな映画か。
絢爛でも華やかでもないこんな映画かとびっくりしたんですね。
フェリーニの代表作品ですが、人間の作品として、人間というものを映画にして、これほど立派なものはありませんでしたね。
ザンパノは男で、ジェルソミーナは女で。キ印は神様なんですね。すごい映画でしたね!
監督のフェデリコ・フェリーニは、同じネオリアリズモのビスコンティ監督が貴族伯爵であったのに対して、少年時代に神学校を抜け出してサーカス小屋に逃げ込んだり、10代で駆け落ちしたり、ローマで放浪生活をして詐欺師にまでなった過去があるようだ。
フェリーニもまた語っている。
──まったく人間的でありふれたテーマを展開するき、私は自分で忍耐の限度をはるかに越える苦しみと不運にしばしば直面しているのに気づきます。
直感が生まれ出るのはこのようなときです。それはまた、私たちの本性を超越するさまざな価値への信仰が生まれ出るときでもあります。
そのような場合に、私が映画で見せたがる大海とか、はるかな空とかは、もはや十分なものではありません。
海や空のかなたに、たぶんひどい苦しみか、涙のなぐさめを通して、神をかいまみることができるでしょう。それは神学上の信仰のことというよりも、魂が深く必要とする神の愛と恵です。
世の中には、絵画、音楽、文学、映画等たくさんの芸術で溢れている。でもオレには、それらに接したときの、唯一と言っていいほどの価値判断基準がひとつだけある。
それはフェリーニの言うような、神学上の信仰ではない、神をかいまみることができるかどうかということ、魂が深く必要とする神の存在、を感じられるかどうかということだ。──抽象的すぎるだろうか、わかってもらえたであろうか──
しかし、そのような作品と出会うことはめったにありません。最近、ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章をシーとの朝の散歩のときに聴いているが、はじめに辻井伸行のピアノ演奏を聴いて、この曲に神の存在を感じた。
今朝は雨のため、愛犬シーズーのシーと散歩に行けません。シーは、オレのタンクトップに噛みついて引っぱったり退屈なようだ。部屋には、ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章が流れているが……