『性的人間』その2
大江健三郎の初期の中・短編集『性的人間』のうち中編『性的人間』を読了した。
前回でも記したが、オレが大江の初期作品を読もうと思った動機は、ふだん目にする2025年の令和の若者と1960年頃の昭和の若者との相違みたいなものを確認、あるいは感じてみたいと思ったからだ。 ──あるいはWikipediaで、この新潮文庫で約130ページの中編小説『性的人間』を、三島由紀夫が絶賛していたという記載を目にしたからだった──
そしてこの中編小説は、《鋪道上の友人》となった主人公の青年J、大柄な老人、やはり大柄な詩人を自認する少年の3人の痴漢、いわゆる性的人間の物語だった。 ──痴漢の話しゆえ、詳細なストーリーを記すことは省く──
大柄な詩人を自認する少年は、《厳粛な綱渡り》という痴漢をテーマにした嵐のような詩を書きたいとねがい、その詩をもっとすごくするために、いちばん勇敢で絶望的な痴漢になることを目指していた。 ──オレは《厳粛な綱渡り》という言葉に惹かれてしまった。おごそかでつつしみ深く身の危険を伴う綱渡り。つまりおごそかでつつしみ深く、真剣な雰囲気の逮捕される危険と隣り合わせの痴漢。この中編小説の発表から2年後、大江は『厳粛な綱渡り』というタイトルのエッセイを発表している──
──Jが山手線に乗って東京を一周りしようとしていた。冬の薄陽のさす朝も昼ちかくで。Jの車輛の座席はほとんど乗客によってしめられていたが、床に立っている者はいなかった。床は鼠の背のように乾いてわずかな土埃を陽ざしのなかへ湧きたたせていた。人々は退屈し、しかも疲れすぎてはいず、周囲に眼を遊ばせて座っている。痴漢のためには魔の時だ。──
という文章があった。この中編小説は、1963年(昭和38年)に発表されているから62年前のひとつの東京の光景だ。今なら座席のほとんどの乗客が寝ているかスマホを見ているだろう。こうした電車内の光景の違いにオレは時代を感じてしまった。おそらく今よりも他人に無関心ではなかったのかもしれないと。よくも悪くも……
──がっしりと安定し鈍重で市民道徳のなかのもっとも卑小に限られた性しか信じていない順応主義者──
また、この文章は、この中編小説に登場する20歳の俳優を評しての表現であるが、「性」という言葉を「生」に置き換えてみると、オレがふだん目にする日本の若者の姿そのものではないかと思った。
──がっしりと安定し鈍重で市民道徳のなかのもっとも卑小に限られた生しか信じていない順応主義者の若者たち──
最後にこの中編小説を読了し、ふだん目にする2025年の令和の若者と1960年頃の昭和の若者との相違みたいなものが感じられたか?
60年安保闘争があった直後の日本の状況に敏感であったはずの大江は、《厳粛な綱渡り》という言葉を用いた。またがっしりと安定し鈍重で市民道徳のなかに埋もれる順応主義者へ嫌悪も抱いていたようだ。わずかな空き時間でさえスマホゲームに熱中する今の若者の姿に、戦後80年の見た目は泰平の日本を感じる。おそらく62年後の令和の若者に《厳粛な綱渡り》を理解することは困難だろう。
《本当のことを云おうか》
年が明け、《この世界のすべての健全なるものから見棄てられたと感じている若者》のオレは、彼氏持ちの葉月里緒奈似の彼女のことは過去のことと感じはじめていた。
ちょうど職場にひとりの若い女の子が入社してきた。目がくりっとした髪の長い西洋人形のような美しい女の子だった。恋愛を信用していなかったオレは、隣の席の彼女へふだん通り冷静に業務研修を行った。一部の同僚からは羨ましがられていたようだったが……
オフィスの制服のスカートをやや短めにしてはいていた新人の女の子は、業務研修中ときどき組んでいた足を組み替えたりした。しかしオレはほとんど気にしていない素ぶりで研修をつづけた。過度にやさしくすることなく事務的に話し続けるオレを、彼女は新鮮に感じていたようだった。




