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『ヒロシマ・ノート』Ⅳ「人間の威厳について」その3



 1964年10月の日本を熱狂させたオリンピックの聖火の最終ランナーに、原爆投下の日に生まれた広島の青年が選ばれたとき、日本文学の翻訳者であるアメリカ人 ──すなわちもっとも日本を理解し日本に共感しているアメリカ人のジャーナリストのひとり── は、この決定がアメリカ人に原爆を思いださせて不愉快だ、という意見を発表した。

 実際に選ばれた中距離ランナーの青年は、ケロイドにそこなわれた躰をしているとか、放射能障害をあらわに示しているというのではなく、それこそすばらしい健康体の持主だった。 ──むしろ人間そのものの強靭さをあらためて感銘づける、そういう肉体だった── そして彼は、大江健三郎のいうところによると、ありとあらゆるすべての不安から解放された者の微笑みうかべて巨大なスタジアムを疾走した。

 しかしそれでもなお、このアメリカ人ジャーナリストは、青年がアメリカ人に原爆を思いださせて不愉快だ、というのであった。おそらく彼は、アメリカ人の記憶から広島のすべてを抹殺してしまいたいのだろう。しかもこの意志は、核兵器保有国のすべての指導者と国民すべてに共通するものではないか。核兵器のもたらす人間の悲惨の極北の証拠である広島を忘れて、なんとかやってゆこう、というのが世界一般の態度だ、と大江は嘲笑(ちょうしょう)した。 ──嘲笑ではなく理解、分析、解釈、非難、あるいは蔑むという言葉を使うべきかもしれないが──


 広島で大江はたびたび、自分は原爆のことは忘れたい、ピカについて話したくない、という被爆者たちに会った。

 毅然と大江はいう。オリンピックの聖火ランナーについて、あれは原爆について思いださせて不愉快だ、と正当に抗議する権利をもつ人たちがいるとしたら、それは被爆者たちにほかなるまい。彼らこそ切実に、あの日の悲惨を忘れてしまいたいだろうし、日常生活の進行のためには、それを忘れなければならない必然すらもあるだろう。そして彼らには沈黙する権利もあるのだと。

 大江は、原爆記念日の夜明けの広島で原爆横死者供養塔の脇をはじめとするいろいろな場所に、深甚(しんじん)な眼をすえて凝然(ぎょうぜん)と立ちすくむ婦人たちの姿を目撃し、そのたびにエフトシェンコの詩の一節を思いだした。 ──旧ソビエト連邦、ロシアの詩人、はじめて知った──


 彼女の動かぬひとみは 無表情だったが、

 しかし、そこにはなにか悲しみ、

                苦しみが

 名づけようのない、

          ひどく恐ろしいものがあった。

                 (草鹿外吉訳)



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