『ヒロシマ・ノート』Ⅳ「人間の威厳について」その2
ジレンマを抱えた大江少年は、やがて東京大学の仏文科に入学し、フランスの現代文学を読みはじめた。そしてフランス文学でひんぱんに使われる言葉の同義語が、日本文学では冷遇されている、ということを発見した。とくに彼の注意をひいたのが、
威厳(dignité)
屈辱あるいは恥(humiliation、honte)
のふたつの言葉で、それらはすなわち、彼の少年時からの恐ろしいジレンマに深く関わる言葉であった。
屈辱、恥をうけいれたあとむなしく殺されるタイプの自分は、いつ、威厳とともに自殺するタイプにかわることができるだろうか? 現在の彼にとって威厳、屈辱および恥という言葉は、彼自身のモラルの世界のもっとも基本的な用語になった。そして彼は、広島で、人間の最悪の屈辱につらなるものを見たし、そこではじめて、彼がもっとも威厳のある日本人とみなす人びとにも出会ったのだ。
ひとりの娘がケロイドのある顔を恥ている。彼女の心の中ではこの恥を別れ道として、地球上のすべての人間をふたつのグループにわけることができるわけだ。すなわち、ケロイドのある娘たちと、そうでない他のすべての人間たち。ケロイドのある娘たちは、自分のケロイドを、それをもたないすべての他の人間たちに対して、恥ずかしく感じる。ケロイドのある娘たちは、それをもたないすべての他の人間たちにの視線に、屈辱を感じる。
ケロイドのある娘たちは、みずからの恥、屈辱の重みをになってどのように生きることを選んだのか? そのひとつの生き方は、昏い家の奥に閉じこもって他人の眼から逃れること。この逃亡型の娘たちが、おそらくはもっとも多い。
もう片方の、逃亡しないタイプも、おのずから、ふたつにわかれる。ひとつは、この世界に再び原水爆が落下し、地球上のすべての人間が彼女とおなじくケロイドにおかされるのを希望することで、自分の恥ずかしさ、屈辱感に対抗する心理的支えをえる人たち。
そしてもうひとつは、核兵器の廃止をもとめる運動に加わることで、人類すべてのかわりに自分たちが体験した、原爆の悲惨を逆手にとり、自分の感じている恥あるいは屈辱に、そのままみずからの武器としての価値をあたえようとする人たち。
ここで大江はいう。もしあなたに醜いケロイドがあり、そのケロイドによる心理的外傷をあなたみずからが克服するための手がかりを欲するとするなら、それは、自分のケロイドこそが、核兵器全廃のために本質的な価値をもつ、と信じることのほかにないはずではないか。そのようにしてしか、むなしく白血病で死ぬ苦痛と恐怖とをなにか意味あるものに昇華することはできないはずではないか?
さらに大江はいう。しかしながら、偶然ヒロシマをまぬがれた人間たちは何をおこない、何ができたであろうか? 現実には、広島のいまなお昏い室内でケロイドを恥ながら過ごす娘たちの青春はすでにうしないつつあり、彼女たちの自己恢復の希望は、確実に踏みにじられてきたのだ。
オレは夢想し想うのだ。
当時の広島の昏い室内の奥で、ケロイドのある顔に恥と屈辱を感じながらも、一冊の小説を手にとり、かすかな光を求め見い出そうとする娘たちの姿を。そして、彼女たちが開いた本の感想をぜひ聴いてみたいと……