『ヒロシマ・ノート』Ⅳ「人間の威厳について」その1
ここ1ヶ月ほど『カラマーゾフの兄弟』を集中して読みすすめたため、『ヒロシマ・ノート』を手にとることがほとんどなかったが、先週あたりから読書を再開し、ゆっくりと読みすすめている。
まだ依然として頭の中は『カラマーゾフの兄弟』で占められているが、それでもノンフィクション作品の『ヒロシマ・ノート』の別なちからが、オレのこころを揺さぶってきた。
大江健三郎は、子供の頃のエピソードを記していた。戦中の終わりのころに、村の映画館で観た映画のひとつのエピソードだ。それは敵軍の捕虜となった若い兵士が、拷問にあって自分の軍隊の機密をしゃべってしまうことを恐れ、ただちに自殺するというものだった。大江少年はそれこそ震撼された非常な感銘をうけ、同時にひどく恐れおののき怯えてしまった。自分もまた、この戦争のあいだに同じような窮地においこまれるにちがいないと予感したのだ。彼は若い兵士の行為に感動しながら、その反面、いったい自分の死を賭けてまでまもりぬかねばならぬ重要事が、この世の中にあるのだろうか、とエゴイスティックに生命を愛している不安な子供らしく疑ったのだ。
この世界の新参者で、まだなにひとつなしとげていなかった大江少年は、ひとつの秘密をうちあけねば殺されてしまう、という選択を強いられたなら、僕は不甲斐なくどのような秘密でもうちあけるだろう。死を賭してまでなお屈服しないこと、死にいたるまで抵抗すること、それが可能な人間に、僕はいつなれるのだろうか? と考えた。
一緒に映画を観た父親 ──父親は大江が9歳時に急死している── に、なぜ若い兵士は自殺したのか? と内部のジレンマはおしかくしたまま、無邪気なチビの表情をよそおってたずねた。しかしその時の彼の短い返答ほどにもショッキッングな大人の言葉を、大江少年は聞いたことがなかった。それは子供の偽装された無邪気さへの苛だった父親の罰だった。
──あの兵隊? 自殺しないでも、白状させられたあと結局殺されたよ。
その後、大江少年には、そのどうせ死ぬ、どちらにしても死ぬ、という状況がたとえようもなく恐しく感じられはじめた。僕はおそらく、白状させられたあとで殺される兵隊のタイプだと自覚したのだ。しかしながら、そういうタイプに嫌悪を感じ、白状しないで自殺するタイプの他人の存在に感激したものの、大江少年は壁につきあたるのだった。
将来の自分の軍隊の戦友たちのことを考え、彼らの生命のために黙って自殺する。しかし、自分の死の重みにくらべて、他の人間たちの死のことを、それ以上に考えることが、できるだろうか? 自分の死こそが絶対ではないか? そして大江少年がまだ子供のうちに戦争は終わっても、戦場にゆかなくてもいい時代の青春を送っても、そのジレンマはのこりつづけたのだ。