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『ヒロシマ・ノート』ひとつのエピソード



 オレは、大江健三郎のノンフィクション『ヒロシマ・ノート』を読みつづけているが、「Ⅲ モラリストの広島」に記してあるひとつのエピソードに、とてもこころが揺さぶられた。すでに読了した「Ⅱ 広島再訪」にいつて何も記していなかったが、優先してこのエピソードを記してみたい。 ──エピソードという言葉が適切かどうか迷うところであるが──


 小雑誌『ひろしまの河』を発行している広島母の会の中心メンバーのひとり老婦人の、娘の友人の若い母親が、奇型児を産んだ。

 母親は被爆者でありケロイドもあり、そこで《決心していたから》、自分の産んだ奇型の赤んぼうをひと眼なりと見たいとねがった。医者がそれを拒んだので、彼女は夫にそれを見てきてくれといった。夫はでかけていったが、赤んぼうはすでに処理されたあとだった。若い母親は、あの赤んぼうを見れば、勇気が湧いたのに! と嘆いたという。

 大江は、この不幸な若い母親の、無力感にみちた悲嘆の言葉のうちの、勇気という単語にうちのめされる思いだった。それはすでに実存主義者が新しくあたえた意味の深みに属していた。

 大江が、この件についてさらに記してあることをそのまま写す。


 死産した奇型児を母親に見せまいとした病院の処置は、たしかにヒューマニスティックであろう。人間がヒューマニスティックでありつづけるためには、自分の人間らしい眼が見てはならぬものの限界を守る自制心が必要だ。しかし人間が人間でありうる極限状況を生きぬこうとしている若い母親が、独自の勇気をかちとるために、死んだ奇型の子供を見たいと希望するとしたら、それは通俗ヒューマニズムを超えた、新しいヒューマニズム、いわば広島の悲惨のうちに芽生えた、強靭なヒューマニズムの言葉としてとらえられねばならない。誰が胸をしめつけられないだろう? この若い母親にとっては、死んだ奇型児すら、それにすがりついて勇気を恢復すべき手がかりだったのだ……


 誰が胸をしめつけられないだろう? 人間が人間でありうる極限状況を生きぬこうとしている、という言葉とともにオレは胸をしめつけられた。




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