『カラマーゾフの兄弟』その2
大学生の頃に読んだドストエフスキーの最後の長編小説『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫(原卓也訳)を、ふたたび読みはじめ、第一編「ある家族の歴史」を読了し、第二編「場違いな会合」を読みすすめてているところだ。
前回でも記したが、三島由紀夫の『豊穣の海』の内容をあらかた覚えていないと同じく、『カラマーゾフの兄弟』の内容についてもほとんど忘れてしまっていた。しかしながらあらためて、カラマーゾフ家の三男で修道僧の主人公アレクセイが、やがてテロリストへと変貌して行く。というドストエフスキーの死によって描かれなかった幻の第二部を念頭に入れて読みすすめている。 ──なにかしらの兆候のようなものが第一部に描かれているのではないかと期待して── おそらくこのような読み方をしている人間は、オレのほかにいないだろうが……
今のところ、思ったよりも読みやすく順調に読みすすめている。この原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』は1971年に出版されており、2006年から2007年にかけて出版された亀山郁夫訳の方がわかりやすいとの評判もあるが、大江健三郎の長編小説『洪水はわが魂に及び』においてたびたび引用された『カラマーゾフの兄弟』が原卓也訳であったため、オレは迷うことなく原卓也訳を選択した。
今回の『カラマーゾフの兄弟』にいつてのエッセイは、あらすじ等の詳細を記すことはせずに、単発的になるかもしれないが、印象的な場面や言葉に出会ったとき、その都度このエッセイに記していきたいと思う。
第二編「場違いな会合」へとすすむと、アレクセイが所属する修道院のゾシマ長老が登場し、キリスト教的色彩がみられるようになって来た。
幼い息子の葬式をすませて、巡礼に出た母親が、三つの修道院にお詣りして、ゾシマ長老のところへ行くがよいと教えらる。母親は、まだ三つだった息子が不憫でならない、あの子の小ちゃな肌着や、シャツや、長靴などを見て泣き暮らしているとゾシマ長老へ哀訴した。
──慰めを求めずに、泣くことだ。ただ、泣くときにはそのたびに、息子が今では天使の一人で、あの世からお前さんを見つめ、眺めておって、お前さんの涙を見て喜び、神さまにそれを指さして教えることを、必ず思いだすのですよ。母親のそうした深い嘆きは、この先も永いこと消えないだろうが、しまいにはそれが、静かな喜びに変わってゆき、お前さんの苦い涙が、罪を清めてくれる静かな感動と心の浄化の涙となってくれることだろう。ところで、お前さんの子供の冥府を祈って法要をして進ぜよう、何て名前だったのかね? (途中省略あり)
──アレクセイでございます、長老さま。
──立派な名前だ。神の人アレクセイにあやかったのかね?
──はい、長老さま、神の人アレクセイのお名前でございます、神の人の。
オレは、この三つで亡くなった息子の名前が、『カラマーゾフの兄弟』の主人公で修道僧のアレクセイと同じ名前であったことに驚かされた。なぜドストエフスキーは、幼くして死んでしまった子供の名前を主人公と同じアレクセイにしたのか? それも神の人アレクセイといっている。
またドストエフスキーは、三男アレクセイを紹介した別のページで、アレクセイはきっと神がかり行者(狂人にひとしい苦行僧で、予言の才があると信じられていた)に類した青年なのだろうとも記していた。
愛犬シーズーのシー