『ヒロシマ・ノート』プロローグ 広島へ…… その2
『ヒロシマ・ノート』「プロローグ 広島へ……」について続けて記していく。
大江健三郎はくりかえし広島に旅行し、そして安江の属する『世界』編集部が大江のエッセイを掲載した。大江は広島への次つぎの旅ごとに新しく、真に広島的なる人々にめぐり会った。それは大江にもっともめざましい感銘をもたらした。しかし大江はまた、じつにたびたび広島のこうした人々の死の通知に接しなければならなかった。また大江のエッセイが雑誌にのりはじめると、とくに広島から数多くの切実な手紙がよせられた。
──被爆者はすべて原爆の後遺症で、悲劇的な死をとげねばならぬものであろうか。被爆者が死ぬとき、健康と心理的な被爆者の負い目とか、劣等感とかいったものを克服して、普通の人間の死、自然死をとげることはゆるされないのかを考えた。わたくしたちが死ねば、すべて原爆後遺症の招来した悲惨な死であり、それは原爆への呪いをこめた、原爆反対に役だつ資料としての死であるとしか考えられないのだろうか。──
──先日、長崎で、原口喜久也という被爆者で詩人であったひとが、骨髄性白血病であったか、診断されてから縊死した。その原口氏が死んだのは、原爆の後遺症でなく、みずからの下した死で死にたかったのではないか。すべてひっくるめて、原爆後遺症として非人間的、没個性的に一括されるのではなく、ひとりの生をいきた人間の、いかにもそのひとらしい死を、原爆の手からはなれて遂げようとしたのではないか。──
さらに大江は、ある夫婦の死にいつても記している。
1963年の3月22日午後、広島で、自殺したひとりの婦人の葬儀がおこなわれた。死者は原爆のもたらした悲惨とそれに屈服しない人間の威厳について、もっとも秀れた詩をのこした峠三吉氏の未亡人であった。夫人の自殺の数週間前、なにものかが、峠三吉詩碑をペンキで汚し、夫人にショックをあたえた。
この、もっとも卑しい悪意のペンキが汚した詩碑にきざまれている詩人の叫び声に、じつに厖大な数の人間が、決して耳をかたむけようとしない時代、12年前に肺葉摘出の手術のさなか、被爆した肉体が抵抗力をうしなってついに死にいたった詩人の思い出とともに、未亡人は最悪の孤立感の暗闇におちいり、その、より暗い深みへと沈みこみつづけるより他に、いったいどうすることができたろう?
未亡人の実姉である広島母の会の小西信子さんの言葉はわれわれをうつ。
──妹よ、よくすべてのことを成し遂げてくれました。峠さんとともに悔いのない一生であった、と私は賞賛の言葉を惜しみません──
ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよにあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
この叫び声は、じつにわれわれ生き残っている者たちのために発せられた詩人の声であるが……
おなじ3月22日午後、東京では、やはりわれわれ生き残っている者たちのために切実な叫び声をあげ、そして、その叫び声のはらむ祈りとはおよそ逆の方向に、人間の世界が回転する、おぞましい兆候が確実にあらわれた時、絶望感と毒にみちた屈辱感とともに自殺したひとりの作家の記念講演会がひらかれていた。作家、原民喜は、広島で被爆し、広島のすべての人間が沈黙を強制されていた1945年暮、すでにあの正確な『夏の花』を書いていた。そして朝鮮戦争がはじまった翌年、彼は自殺した。
大江のいう詩人の叫び声に ──今の日本がこうしたひとたちの礎のうえに成り立っていることに── 厖大な数の人間が、決して耳をかたむけようとしない時代、その叫び声のはらむ祈りとはおよそ逆の方向に、人間の世界が回転する、おぞましい時代は、今もかわりはないだろう。