生け贄男は必要か
大江健三郎の短編・中編連作集『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』に収められている短編『生け贄男は必要か』を読了した。
『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』は、1969年(昭和44年)に発表された。70年安保闘争の前年であるという時代背景を考慮しつつ浅学ゆえに、2023年 ──イスラエルによる地上戦によってハマスの殲滅が開始されようとしている今こそ── を生きる皆さまに問いたい。
──生け贄男は必要か?
何を思い浮かべ思慮し、どう返答いただけるであろうか? オレは浅はかながら、イエス・キリストを聯想した。 ──ユダヤ教、キリスト教、イスラム教における《生け贄》の定義がどうであるのか、またゴルゴダの丘で十字架に磔にされたイエスが《生け贄》だったという認識が正しいのかどうか、また先人の宗教家や思想家、哲学者などの《生け贄》に対する認識にもまったく無知であるが── しかしながら、歴史上においては、多くの古代文明、あるいはいくつかの近代文明においても神に《生け贄》を捧げる宗教儀式は行われていた。とくに高度に階層化された社会では、多くの人身供養が確認され、その社会のエリート層が恩恵を受けていたらしい。
この『われらの狂気よ生き延びる道を教えよ』は、ぼく自身の詩のごときものを核とする三つの短編として、『走れ、走りつづけよ』『核時代の森の隠遁者』、そして『生け贄男は必要か』が収録されているが、この短編『生け贄男は必要か』のぼく自身の詩のごときものを参考までに一部抜粋したい。
子供を救え! ヴェトナムの子供を救え、朝鮮の子供を救え! そして日本の子供を救え! これらの子供に、豊かな実りの季節を準備してやるために、私は生け贄になりたい! (中略)
教えてくれ、すでに子供らの豊かな明日のためには生け贄男が必要なまでに、「悪」は現世をみたしているのか? 教えてくれ、もうすでに生け贄男は必要なのか? もう私は、食われなければならないか?
先日YouTubeで、いわゆる東京歌舞伎町のトー横に集う少女を取材した報道番組を観た。多くの少女が親による虐待のため家出をし、トー横にやって来ているようだった。 ──虐待を受けている子供が多いことに驚かされた── 未成年の彼女らは《案件》という仕事で日々の暮らしを立てていた。《案件》とは売春のことだ。彼女らは歌舞伎町の大久保公園で、立ちんぼをして客を取っている。多くの客は中年のオヤジ! 自分の娘ほどの少女を平気で買っている。 ──あるいはホストに貢ぐために売春をする若い女性も多い、それも相当歪んでいるが──
オレはこの報道番組を観ながら、《生け贄》という言葉が頭をよぎった。大江健三郎の書いた『生け贄男は必要か』は1969年に発表されたが、それから約50年後の現代において現状は大きく変わっているのだろうか?
ふたたび、ぼく自身自身の詩のごときものを一部抜粋したい。
われわれ現代の大人はすべて「悪」におかされている。人間を食って、なおかつ反省していないやつだって東京中で百万人はくだらないぞ。われわれはみな「悪」におかされきっているのだ。すべてが遅すぎるのだ。
教えてくれ、すでに子供らの豊かな明日のためには生け贄男が必要なまでに、「悪」は現世をみたしているのか? 教えてくれ、もうすでに生け贄男は必要なのか?
あらためて皆さまに問う。
──生け贄男は必要か?
外の世界はあまりにも渾沌としているが、今晩もエアコンの暖房の中で愛犬シーズーのシーは寝息をたてている。シーの丸くつぶらなくもりなきまなこは外の世界の何を見ているのだろうか?