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『晩年様式集』その8 「魂の集まりに自殺者は加われるか?」その2



 大江健三郎の最後の長編小説『晩年様式集イン・レイト・スタイル』の「魂たちの集まりに自殺者は加われるか?」という章についてさらに記していく。


 若い頃から吾良(伊丹十三がモデル)は、長江(大江健三郎自身がモデル)に、自殺についてのホノメカシを行なっていた。長江はそれに脅かされるのが嫌で、自分の方から先廻りして、実際に吾良がモデルの人物が自殺する小説を書いたことがあった。オレはまだ未読の長編『日常生活の冒険』だ。若い長江はこういう小説を書くことでしか、吾良のホノメカス恐しいことに反対できなかった……


《あなたは、時には喧嘩もしたとはいえ結局、永いあいだ心にかけてきたかけがえのない友人が、火星の一共和国かと思えるほど遠い、見しらぬ場所で、確たる理由もない不意の自殺をしたという手紙をうけとったときの辛さを空想してみたことがおありですか?

 ぼくは今年の暮アフリカへ旅行し、ブージーの無縁墓地へ犀吉をおとづれようとしている。ぼくは犀吉が、かれの魂の歌としていた、

  死者を死せりと思うなかれ

  生者のあらん限り

  死者は生きん 死者は生きん

 という詩句にのっとって、かれの亡霊にかれの記憶するすくなくともひとりの生者の存在をつげ、かれを鎮魂したいのである。

 くりかえさないではいられないのだが斎木犀吉のようにすさまじく死を恐怖していた人間の自殺とは、なんという酷いこととだろう。いったい死とはなんだろう。死後の世界はあるのだろうか。死後の虚無、虚無の永遠とはどういうことなのだろう?

 それでもなお、かれが本当に生きてサハラ砂漠から通信をよこしぼくを誘ってくれたとしたら、ぼくはこんどこそ、ぼくの日常生活のすべての係累をなげうち気違いのように夢中になってアフリカ行きのジェット機に乗るだろうと思う。斎木犀吉はぼくあての最後の手紙にこう書いてよこしたのだった。

「元気だ、ギリシャの難破船の船長の話をきいたんだが、かれは航海日誌の最後にこう走り書きして死んでいた。イマ自分ハ自分ヲ信頼シテイル、コウイウ気分デ嵐ト戦ウノハ愉快ダ。そこできみはオーデンのこういう詩をおぼえているかい? いまおれはそのことを考えている。

  危険の感覚は失せてはならない。

  道はたしかに短い、また険しい。

  ここから見るとだらだら坂みたいだが。

それじゃ、さよなら、ともかく全力疾走、そしてジャンプだ、(おもり)のような恐怖心からのがれて!」》


 すさまじく死を恐怖していた人間の自殺、死後の虚無、虚無の永遠、という言葉に惹きつけられた。しかも火星の一共和国かと思えるほど遠い、見しらぬ場所で、確たる理由もない不意の自殺なのだ。

 生者のあらん限り 死者は生きん という詩句にも切実なる願いが込められているようだ。



 雨が降り少し肌寒く感じられるため、エアコンの暖房を入れた。愛犬シーズーのシーはすやすやオレにお尻をくっつけて熟睡している。


 ──シー、雨が降っているから朝の散歩は行けないね!




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